手放すことは行為ではないという話をちょくちょくしております。
瞑想のお話をしている時にも、手放すことについて書いていると思います。
手放すこというのは、自然と起こってくる結果です。
ただやめればいいということになります。
自己の同一化についても、気付けばある意味終わりです。
そして、それは実はずっと起こっていることなのです。
もくじ.
握っている手を放すということは、やめるということ
放すということをやろうとしてしまいますよね。
私もよくあります。
「どうやったらできるか」という発想をしてしまうのです。
手でボールを握りながら「どうやったらボールを放せますか?方法論はありますか?コツはありますか?」という質問に似ています。
「コツも何も、放すだけだよ」というのが皆さんの思いつく回答だと思います。
これは、思考でも起こっています。
思考でもどうやって放すかではなくて、ただやめる。それだけなのです。
瞑想においても何もしないことが大事です。
極力何もしない。
身体の力を抜いて、寛いでいくことで瞑想が起こってきます。
手放すことは物理的なことですが、精神的なことでも一緒です
今の例えば話(ボールの話ですね)ですと物理的な話になっております。
ただ手放すだけだよ、ということが精神的なことでもあまり変わらないのです。
怒りというのも手放すだけなのです。
いきなり言われても難しいですよね。
ですが、基本はやめることです。
どうやったらやめれるかではなくて、ただやめるだけです。
いまここでやめるだけです。
手放すことを手助けしてくれるのが、瞑想であったりリラックスしたりすることです。
リラックスしている時には、何も握っていないですよね。
そういうものです。結果として手放しが起こっていくのです。
自己は何でも握っていないと気がすまない
自己という存在は、いつでも何かを握っていないと気がすまないものです。
常に行動をし続けます。
行動することで「なんでも」手に入れようとします。
動きっぱなしの存在なのですね。
なぜ、動いて握り締める対象を探すかというと、不安だからです。
自己は不安で仕方が無いのですね。
だから何かに執着して、それをじっと握り締め続ける。
これが手放されると、自己が崩壊してしまうのではないかという恐れがあるからです。
こだわりを持ってしまうのも同じに感じます。
自己というのは、こだわり、執着がないと存在できないのです。
ただ湧いている思考を観察する
「だから、どうすればいいの?瞑想を一日中やるということ」という話になります。
「どうする」ではなくて「どうあるか」が大事だという話になるのですが、少し視点を変えて、観察するということを提案してみたいと思います。
観察するというのは、ただ観ているということです。
一歩でも二歩でも離れて観察するのです。
ヴィパッサナー瞑想を24時間やっているような感じですね。
自覚するという言い方でもいいかもしれません。
自分の思考や行動、感情の起伏を観察し続ける。自覚し続けること。
そうしていくことで、自己という幻想を見破ることができます。
難しいと思わずにやってみてください。
また、ストップ瞑想もかなり有効です。
30秒間だけで行う瞑想(厳密に瞑想というかは置いといて)は生活に静寂を与えてくれます。
これが習慣になると、確かに人生変わる人がいるのも頷けます。
気になった方はやってみてください。
終わりに:自己から離れる
自己と同化してしまっていることが苦しみです。
自己同化から離れるのが瞑想でもあります。
寝ているときは自己同化から離れていますので、みなさん起こっているのです。
繰り返しますが、基本はリラックスして過ごすこと。
目の前のことと喧嘩をしないで、リラックスして望むことです。
わたしたちは、どうしても評価したり比べたりしてしまいますが、今起こっていることと仲良くなると自然と好転してくるものです。
リラックスした気分はリラックスできる現象を起こします。
そして、それが当たり前になってくると気付くのです。実はずっと自分はいなかったということに。