瞑想をコツコツとやっておりますと、しっかりと瞑想をする時間をとった時の瞑想への入りがスムーズになってきます。
落ち着くきのある日々が続くことで、瞑想状態へと入っていくのが容易になるのかもしれません。
瞑想も結局は回数や時間が大事に思います。
掴めないものを、なんとなくでも感じていくのには回数は大事ですからね。
理解してできるものではなく、体感として理解していくものですからね。
瞑想、おすすめです。
瞑想は気楽にやってみるといいなと思います。
瞑想にどんな意味があるんだよ、と言われる方もいらっしゃるかもしれませんが、落ち着く時間があるというそれだけでも意味があるかと思います。
疲れた脳が休まり、デフラグのように脳を整理整頓してくれます。
身体もふわっと軽くなったりしますので、身体が疲れている人もおすすめです。
私は簡単なSUWARUという”ただ座ろう”という企画でやっております。
どこでもいいので、家でボォ〜とするような感じでもいいので瞑想体験をされてみてください。
簡単な瞑想の記事もまとめてあります。
関連記事:ヨガの瞑想を始める、深める、続ける、そして人生を緩やかに好転させる【まとめ記事】
ご参考にどうぞ。
そんな風に瞑想をして過ごしているのですが、最近はミニマルにもハマっております。
ものをより少なくシンプルに生きるということですね。
これが、瞑想とも相性が良いと思っております。
部屋をミニマルに
部屋を少しずつミニマルにしております。
今は一気にやる時間を確保するのが難しい時なので、少しずつ。
それだと効率は悪いのですけど、それでも進めていくことをしております。
確かなことは、少しでも進めるとミニマルに近くということ。
少しずつでもやっています。
特に最近は資料系を整理しております。
やろうと思っていたことをどんどん整理していこうと思います。
ブログへ書こうと思っていたメモも100枚近く出てきておりまして、どんどんアップしていこうと思っております。
捨てて終わるもの、処理してから終わるものとありますからね、処理するものは処理をしていきます。
今、気づきましたが、こういったメモもいったん電子化してもいいのですよね。
そうすれば紙は捨てられます。
でも、その作業をするくらいならさっさとやっつけたいという気持ちもありますね。
難しいところだ。
瞑想もミニマルに
瞑想もミニマルにした方が入りやすくなります。
もちろんごちゃごちゃしたところでも関係なく瞑想できますが、やりやすさということではシンプルな部屋ですね。
電車の中やホームで練習することも大事でしょう。
練習は練習。
深める時は良い環境で。
普段はシンプルな生活空間で瞑想するのでいいと思います。
ミニマルが進むと落ち着いて瞑想にも入りやすくなります。
余分なものを手放していくだけでも、瞑想が変化します。
ある程度ミニマルが進んでいる人は、買い換える時により良いもの、そして物がよりシンプルになる物を選ぶといいと思います。(やっていると思いますけど)
家電製品は進化していますので、調べると本当に便利なのが出てきたりしますのでミニマルライフを助けてくれます。
テクノロジーの進化もミニマルライフには大切な部分もありますね。
毎日一つ減らしてもしょうがないけど
毎日一つずつ手放すというのは、少々微妙だと思っています。
なぜなら、同じ用途で使うものがいろんなところに散乱しているので、把握仕切れないまま整理整頓することになるからです。
家中のハサミを集めることや、タオルを集めること、本やコンセント類を集めて整理した方が効率は良さそうですよね。
でも、そういったまとまった時間を取れないときは、少しでも物を減らしておくといいと思います。
一気に100個のものを片付けるよりも50個の物を片付ける方が楽ですよね。
なので、こまめに掃除したり整理したり、少し手放していったりということをやっています。
タイマーで5分だけ測って「片付けるぞ!」とやるだけで結構片付いたりもします。
スッキリした部屋や家の方がいろんな物事は捗りますので、時間を測るのもおすすめです。
5分を侮ってはいけません。
結構、いろんなことができます。
整理するだけでも、かなりのことができますのでおすすめです。
ミニマルに興味のある人はこちらの記事で紹介している本を立ち読みでもされてみてください。
ヒントがあると思います。
関連記事:「より少ない生き方」を読んで、かなりいい影響を受けてます。「断捨離」「人生がときめく片付けの魔法」「エッセンシャル思考」以来のヒット【より少ない生き方を実験中】
終わりに:積み重ねはヨガと一緒だけど、ミニマルは確実
積み重ねは大事ですね。
ヨガは積み重ねるものです。
毎日の稽古によって鍛錬していきます。
ミニマルも積み重ねが大事です。
なぜなら、物を一つ手放すと一つ減ります。
物理的に一つ減るのです。
いいですよね。
だから、整理(必要なものだけにすること)は少しでもやることが大事です。
少しでもやれば、少しだけでも前に進むことができます。
ミニマルがいいなと思うところはここにもあります。
やってもいつの間にか押し寄せられる波のように戻されていると辛いじゃないですか。
買わなきゃ増えないですしね。
ミニマルしていくということを決意して、自分の指針で進めていくとよろしいかと思います。
みんなで楽に生きていきましょう。
関連記事:もう少しだけ暮らしを自由にしていく、ミニマルな生活へしていくとピタッとしてくる
編集後記:神との対話はスピリチュアル本の基礎
神との対話を少しだけペラペラと読んでおりました。
久しぶりすぎでしたが、なかなか面白かったです。
新装版が出ておるのですね。
山本太郎さんの神との対話の解説を引用します。
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「二十五歳になった時、納得できない大人になってたら、死んでやる」
十代の僕はそう思っていた。
芸能界に入ったのは十六。まわりの大人がほとんど信用できなかった。言葉巧みに操られ、自分の意思がひとつも尊重されていないような気がして、重苦しい毎日だった。仕事先でよく、大人たちから「お前、ホントに十六か? 賢すぎるなあ」と言われていた。適当なことを言っている大人が裏で何を考えているかを、いつもじっと見ていたからだ。
大人だけじゃない。何かに対していつも怒りがあった。むかつくヤツは消せばいい。金がなければ奪えばいい。今さえよければいい。人生は一度きり。俺は俺の生きたいように生きる。——やんちゃな年頃とはいえ、ずいぶん刹那的な十代だった。
「だけど何か違う」、そう感じたのが二十一歳。
ちょうどその頃、姉がヨーガを習い始めた。僕と同様、悩みが多くやんちゃだった姉なのに、ヨーガを深め、精神世界に興味を持つにつれ、驚いたことに、会うたびにまるで薄紙が剥がれていくように内面の輝きが増していくのが見てとれた。
姉とは気が合わず、よく衝突していた母が、そんな姉の変容を見て、「私もそうなりたい」とヨーガを習い始めた。母には膠原病という持病があったのだが、ヨーガを始めてからは徐々にその症状も安定し、どちらかというと、物質至上主義だった母が、姉の影響でいつしか精神世界へと⋯⋯。そして、母の内面もそれまで以上に輝きを増し、大家族の愛と絆が深まった。そして、これは効果がある、と僕もヨーガを習いに芝の増上寺に通うようになった。
ヨーガを通して身についたのは集中力。
僕は常にじっとしていられない子どもだった。とにかく机に五分と座っていられない。勉強は大嫌い。字を読むくらいなら、どこかに遊びに行きたかった。
その、まったく本を読まなかった僕が、海外ロケの荷物に母が入れてくれた本を開く気になったのも、ヨーガで集中力がついたためだろう。
『神との対話』を読みはじめたのは、『世界ウルルン滞在記』の仕事で、パプアニューギニアのイリアンジャヤへ向かう途中だった。七回も飛行機を乗り換え、最後はドラム缶と一緒に貨物用のプロペラ機で運ばれ、たどり着いたのは、「秘境」と呼ばれる地だった。
「文字に慣れていないから最初は読みにくいかも。でも、飛ばし読みはしないで、わからないところは元に戻って繰り返し繰り返し読めば、きっと意味がつかめるよ」と言う母の熱意に負けた。始めからすんなり頭に入るわけではなかったが、集中して読み始めるとだんだん面白くなってきた。
道理に合っている事だらけだった。科学者も政治家も、偉い誰も説明できなかったことをズバズバ切っていた。
イリアンジャヤに着き、ある部族と生活を共にした。日本とはまるっきりの別世界だ。食べものも違う。生活もまるで違う。十六くらいの健康な娘が子どもを産み、しつけや教育は酋長がする。日本なら高齢者は、社会的には片隅に追いやられることが多い。だが、ここには経験を積んだ人だからこそ、必要とされるぴったりの任務があり尊敬されている。
「若い者が子どもを産み、五十歳以上の成熟した大人がその子を育てればいいと『神との対話』に書いてあったのは、目の前のこれじゃないのか?」
本に書いてあったことを、この辺境の地で自分自身の目でしっかりと確かめたのだ。
帰国後も、まさに同じような出来事に気づかされた。『神との対話』はいつのまにか僕にとってバイブルのような思い入れのある本になっていた。破天荒だったこんな僕が変われたのは、この本との出会いがあったからだ。
だから、日々自分なりに本に書いてあることを実践している。たとえば仕事を選ぶとき。映画やドラマでも、その時々で、スケジュールや内容、さまざまな状況が複雑にからんだうえで、選択を迫られる場面が多い。そんなとき、損得や目先のことを考えるより、自分が本当に心からやりたいことをやるべきだ、と僕はそう肝に銘じている。
また、インスピレーションやヨーガで少しは開けた自分のカンを大事にするようになった。
決して大げさなことじゃない。たとえば朝出かけるとき、ふと替えのTシャツをもう一枚持って出かけようかな、とひらめいたりする。「まあ、大丈夫か」とそのまま出かけてしまったときに限って一日中動き回り、大汗をかいてびしょびしょのシャツで過ごすはめになってしまう。そういうときは、朝のひらめきを逃した自分を疎ましく思う。忙しさにまぎれ、つい「まあ、いいか」と気づかぬ風をよそおうこともある。そんな時は、「ダメダメ、これはきっと自分に必要なことは自分が一番知っているということだ」と立ち止まってチェックすることにしている。
もともと僕はクリスチャンだった。だが親がそうだったから洗礼を受けただけで、僕にとってみれば単なる儀式だったにすぎない。子どもの頃から事あるごとに自分の勝手で神様に祈ったりしたけれど、その願いは届いているのかいないのか。悪事をしては、あの鋭い母にかかるとすべてお見通しで、ベッドの中で何度「クソ神様!」と呟いたことか。そのうち、大きくなると、「神様がいるのなら、なんでこんなひどい世の中なのか? 本当は神様なんていないのでは?」とむかつくようになっていた。
でも、今は違う。
この本に書いてあるように、神が自分と同じようなものとして人間をつくったのなら、自分たちの力で世界は変えられるんじゃないかと思う。今は僕は特定の宗教を信じているわけでもない。キリストやマホメット、ブッタとか、特別に信仰している神や仏もいない。だが、いつもなんとなく、目に見えない大いなる神の存在はあると確かに感じている。どこかに向かって祈るわけじゃない。だが、どんな人も何かに夢中になっている一番ピュアな状態が、神に近いような気がしている。
また、殺戮や貧困、飢餓という悲惨な状況下の人を行動で見るたびに心が痛むのは、僕の存在意識に「地球人」、「みんなと家族」という考えがインプットされているからだと思う。
うちは母子家庭だが、物心ついた頃から母は子どもにいっさい隠し事をせず、「ボーイフレンドができた」「今月はもうこれだけしかお金がない」など包み隠さず話してくれた。母が死んだあとでも、何が起きても動じないよう、この世の中で起こり得るすべての事に対処できるようトレーニングを施してくれた。僕が悪事を働いたときは、納得するまで説教され、キッチリとけじめをつけられた。母親としてだけではなく、人間として真正面から向き合ってくれた。母親でありながら、「いい師匠に当たったなあ」と思わせてくれる母も、『神との対話』に書いてあるような「家族」というものの愛と大きさを、教えてくれているのかもしれない。
自分が自分らしくない時。
最高の考えも持てない時。
高いビジョンなどとんでもないという時。
残念ながらそんな日は多々ある。そういう時、僕は『神との対話』を読み返す。目次を見て、目についたところをぱっと読む。地方ロケに行く時にも、ぽんと鞄に放り込んで行く。
もし、僕も神と対話ができたら聞いてみたい。「地球はこれからどうなるのか?」と。
二〇〇二年五月
山本太郎
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