ヨギボズQAとはEngawaYogaオーナーKiyoshiと高野山真言宗の阿里僧侶が読者の質問に対して回答したもの(ヨギーとボーズの回答集)となります。
その場のノリに任せて回答しておりますので至らない点や少々眉をひそめる回答もあるかもしれません。
寛大な心でお読みいただければと思います。
ヨギボズQAの回答集は以下にございます。
ご興味があればご覧ください。
では今回の内容をどうぞ。
もくじ.
質問:キリスト教徒ですが参加していいですか?
キリスト教とか宗派によってどうこうというのはございません。
営業行為はもちろん禁止ですけど、大丈夫ですよ。(犯罪はもっての他ダメです)
ひとまずヨガに関してはいかなる宗教であっても特に気にしません。
人に押し付けるような営業行為や傷つけることなどをしない限りOKでございます。
それでは、以下のヨギーと坊主の回答をご覧下さい。
回答:ご本人が気にしないのでしたらよろしいのではないでしょうか。そして宗教はそのうちなくなるでしょう。 BY KIYOSHI
現在(2016年6月当時)、開催している場所は妙善寺さんという六本木のお寺と公園(新宿御苑)が多いです。
(今はENGAWA STUDIOで開催しております)
ですので、宗教という目線ですと実はお寺という「仏教の場所」で開催しております。
キリスト教の方が仏教系の寺院に行くのはあまり聞いたことがありませんが、逆に仏教の方が知り合いとかに連れられて教会に行くのは聞いたことがありますね。質問とは直接関係のない話なのですが。
結論としましては、ご本人が良いと判断すれば来て頂いて大丈夫です。
ヨガクラス、そして瞑想クラスにおいて宗教的儀式を強要することもありません。(一部のヨガクラスにおいては、チャンティングと言ってヨガのマントラを唱えることはありますが、別に唱えないで聞いているだけでも結構です)
宗教関係無く、ご参加ください
初めにも書きましたが、宗教関係無くお越しいただいて結構です。
その宗派の戒律で「他宗教との交流は禁止」とされているようでしたら、その宗派にもご迷惑をおかけすることもあるかもしれないので、改宗されるなりしてからの方がよろしいかと思います。(ですので、頑張ってきたりしないでくださいね。お互いのためになりませんから)
キリスト教にも瞑想がありますよね。
詳しくは存知あげておりませんが、キリスト教の方に聞いたことがあります。イエス・キリストの苦難をイメージするとか。
「大いなる沈黙へ」というグランド・シャルトルーズ修道院を取材したドキュメンタリーでも、祈りという形式ですが、じっとしているシーンが多々ありました。
こちらの記事にも書きましたが、「大いなる沈黙へ」という映画がございまして、グランド・シャトルーズ修道院という世界的に有名な修道院を撮影した作品でございます。
高い山の上にある修道院で、日々、沈黙を守り続けて祈り続ける生活をされております。
これを見ていると祈りのすごさも伝わってきて、「沈黙が語る」というと変な言い方ですが、何かしらのエネルギーの交流を感じずにはいられません。
祈るというのも、ひとつの瞑想の形式ではございますが、瞑想とは異なるものだと私は認識しております。
宗教はそのうちなくなると思っています
宗教という枠組みが崩壊しつつあるかと思っていたのですが、今の世界情勢を見ていると国家以上に強固ですね。
2016年6月現在ですと、国家よりも宗教のつながりの方が強固であり、信頼関係を作っているのではないかと思ってしまいます。
宗教内だけで、交換のできる通貨のようなものができたらポスト国家が出来てしまうかもしれませんね。
そうなると今対面しているような宗教とは別の形態になっていると思います。
日本でもグレーな宗教というのがありますよね。
「これ、宗教だよね」というような日常会話も出てくる程に様々な形態が増えております。
ヨガももしかするとその一つかもしれません。
それでも、宗教的なものは残っても、宗教は無くなっていくように感じています。直感的にですけど。
瞑想は宗教的儀式ではない
瞑想と言うのは仏教が出来る前からありました。
ブッダ(釈迦のことです)が生まれた当時から、様々な瞑想法や修行法があったそうです。
ブッダが生まれるその前にも、悟りという表現はありますし、大いなる存在とか大いなる自己、神我、梵我一如というような表現になる概念も出ております。
それこそ、瞑想的な行為は、もしかすると宗教ではなく哲学の世界だったのかもしれません。
そのような始まりなので、宗教の定義をしっかりとおさえている訳ではありませんが、もっと身近に瞑想のようなものがあったのだと思います。
例えば、座禅の前に呼吸法をやったからと言って、呼吸法が宗教的儀式ではありませんよね。そういうことです。
瞑想は宗教的儀式とは、私は認識しておりません。
瞑想はくつろぐこと
瞑想の話を書いたので、もう少し書いていきますと、瞑想は自分で起こせるものではありません。
ただただ、深いリラックス状態から瞑想状態へと自然と移行していくものです。
睡眠のように環境を整えることはできますが、意図的にばっと瞑想状態に入ることは難しいです。
(難しいと書いたのは、ある種のレベルまでにいくと意図的に入れるからです。ラジオのチューニングをするようにして入れるようになります。)
ですので、くつろぐことが大事なのです。
ヨガを通して身体を作り、瞑想で深いくつろぎに入る。
そうすることで、瞑想を舞い込んでいくのです。
ということで、ご参加お待ちしております。
回答:何も問題ございません。 BY 阿里坊主
もちろんOKです。
キリスト教徒であろうが他の宗派であろうが、参加したいということであれば、もちろんOKです。
阿字観は真言宗の瞑想法です。
仏教的作法を含むことはありますが、それを強要をするつもりはありません。
もし作法の一部がNGというのがあれば、やらなくても構いません。
さすがに全部NGというのはないと思いますが笑
何か気になることがあると、瞑想は深まりません。
その人が最も瞑想がやりやすいやり方で瞑想してくれれば、それが一番です。
私は日本の真言宗の仏教僧侶ですが、他の宗派や宗教について一定の敬意を持っています。
たまたま対象がちょっと違うだけで、何かを信じている仲間であると思ってます。
他の家に遊びに行ってまで、自分の家のやり方を押しつけるような、そんな無粋なことってしませんよね。
ですので、他の宗教だから駄目とか、参加しては駄目だとか、そんなことを言うつもりは一切ありません。
多様性についての寛容性
国際化がどんどんと進む中で、個人の価値観も多様化が進んでます。
みんな足並みをそろえて一緒であることが美徳された日本でも、人間それぞれ違うことが当たり前であるという考え方が浸透してきてます。海外ではそれがより顕著であるとも聞いてます。
たとえば食事への価値観
たとえば性への価値観
たとえば所属国家への価値観
違うことが当たり前になってきている昨今。
必要とされるのは、それは違うのではないかと突きつけることではなく、他者への寛容性だと思います。
暴力的に持論を突き通すのではなく、違うことを認めあって意見の交換をする懐の広さ。
そのあたりをわきまえないと、誰も認めることのなく誰からも認められることのない居心地の悪い世間ができるだけです。
そういうあたりを大事にしたいですね。
慈悲の心
EngawaYogaで開催しているのは、ただの瞑想会です。
論争や布教はやめてください。
暴力なんてもっての他です。
私も仏教をおしつけるつもりはありません。
仲良く楽しく過ごすことができれば、それが一番です。
瞑想とはただ心を沈めればそれで良いというものではありません。
むしろ心を落ち着けた後に、切っても切れないものとして出てくるものは、慈悲の心です。
慈悲の心というと、今の日本だと大風呂敷ひろげすぎて伝わらないかもしれないですが、ちょっとでもいいから優しい心をもつくらいのニュアンスでもよいです。
少しでも優しい心というのが大事なのですよ。
他の宗教を知ることは自分の宗教を深めるということ
自分の国について深く知りたいのであれば、海外に出るべきだと、学生の頃に先生に言われた今でも言葉を覚えてます。
なるほどと思わされたのですが、ただただ一つのことを深めて勉強するよりも、それとは違う比較対象を体験・知ることで、相対的に知識が深まるということですね。
これは、もちろん宗教についても言えることだと思います。
他の宗教者との異文化交流は、自分について知ることができる道だとも思います。
逆に、異文化・異宗教で瞑想会ができたら素敵ですね。それも平和に優しく、瞑想会ができたら。今後の瞑想会はそうあるべきなのかもしれません。
終わりに
不定期ですが、まだまだ更新していきますので少々お待ちください。
「ヨガをより楽しめるように」
「瞑想がより起こりやすくなるように」
「日常生活の深刻さが減少するように」
ご活用頂ければうれしく思います。
それではより素晴らしい日々が送れることを祈っております。
・Kiyoshiの紹介 → Kiyoshiプロフィール
・阿里坊主の紹介 → 阿里坊主のプロフィール