YOGGY&BOZUのクラスに参加してくださった方々ありがとうございました。いつもの妙善寺@六本木での開催でした。
瞑想はやっぱりグループでやるのがいいですね。
一人でやるのとは雰囲気が違います。
家でひとりでやられている方は体験できると思いますが、ひとりで瞑想をする場合と、グループで瞑想する場合とで体験が変わってきます。
何かエネルギーの同調があるのか分かりませんが、体感としては間違いなく変化があります。
YOGGY&BOZUでは、真言密教の阿字観瞑想をやっておりますが、ヨガの瞑想と一緒で何かしらの変化があると思っています。
瞑想における期待出来る効果も高くなっていることに勝手に感じています。
このあたりの微妙なところはこれからも検証していきたいと思っております。
グループでの瞑想、一人での瞑想体験で変化や違いを感じられた方は是非、感想も頂けると嬉しいです。
ヨギボズのシェアは自分のためになる
ヨギボズでは何度もお伝えしている通り、シェアをする時間があります。
仰々しいシェアの時間ではなくて、瞑想後のまったりとした時間のなかでシェアをしています。
シェアと聞くと何を話そう、なんて考えてしまう人もいるかもしれませんが、そんなことは気にしないで大丈夫なほどまったりしております。
意気込むのではなく、ただ淡々と感じたことを話して頂ければ大丈夫でございます。
そして、自分が気にしているほど誰も自分の話しは聞いておりません。覚えておりません。
他者は気にしないで、自分自身のためだけの時間だと割り切るのもありかもしれませんね。
実際、話すことで一番勉強になるのは自分自身だからです。
シェアで話していることが自分の体験を語っているとは限らない
瞑想後に、その時に起こったことをそのまま言葉にしていくことが大事なのですが、言葉にした瞬間に「あれ、違うなぁ」と感じることもあるかと思います。わたしはよくあるんですね。「あれ、違うなぁ」と思いつつ、面白いなと思っていつもそんな自分を眺めています。
体験を掴もうと思うとスルスルと手から抜け落ちるように、言葉でつむぎながらも「もうちょっと違うことを言いたいんだよな」という思いを感じながらしゃべっています。
逆もあって、しゃべっている自分の言葉を聞いて「瞑想中に自分は、こんな体験をしていたんだな」と考え直すこともあります。
この二つは、話し始めることでしか体験できないことです。
書くのとはまた別です。第三者に向けて話すという行為からしか生まれない種類の言葉というのがあるのですね。
どちらになってもいいので、シェアをしながら瞑想のあとの余韻を楽しむように、寛いで頂ければと思います。
表現としてのシェア
表現したコンテンツには、あまり大した意味はないと思います。少し極端な言い方になってしまうかもしれませんが。
それよりもコンテキストです。文脈ですね。
そのような感想がなぜ出てきたのか、そこがとても大事に思います。
「私はいなかったみたいだ」というのも、「深く入れた」というのも、誰が言っているのかで信頼度が変わります。
大それた人物が言わないとダメ、という意味ではなくて「今この場で体験している私がどのように感じているのか」そこが重要なのです。
私が体験したことを私の言葉で体験しなおすことが大事なのです。
今回は坊主阿里から感想をもらいました
坊主阿里から感想をもらいましたので、こちらを紹介して、しめたいと思います。
土曜日なのでよぎぼずも三時間で充実したクラスでした。
ハロウィーンにかこつけてKiyoshiの怖い話が飛び出るなど、面白いクラスでした笑
ヨガ二時間ありましたので身体を存分にほぐすことができ、またKiyoshiに「瞑想に向けて、呼吸に必要な箇所をほぐしてほしい」という無茶ぶりに答えてもらったので、参加者には自然に無理なく座れたのをわかって頂けたと思います。
この流れに乗って、ゆるめる瞑想では自然な座り方や呼吸を意識してもらいました。自然に弛緩することができ、そしてその分だけ自分がよどむ場所も感じた人は感じられたのではないかと思います。
月輪観はやはり慣れないと難しい瞑想法です。
想い描く瞑想は難しく、つい眉間にシワが寄ったりするものです。ですが、私が皆さんを見ている感じでは、難しい瞑想なりに自分にできる範囲で自然にお月様を描いていたのではないかと見受けられました。
今のヨギボズのフロー、良くなってきているな、なんて思いましたよ。