役立たずが世界を変える

自己探求

正直いうと、結構私は役立たずなんですよね。

まぁ役立たずでもいいんじゃないですかね。

役立たずだと自分で思いますか、それとも役には立っていると思いますか。

どちらにせよ、役立たずなりな良さというのはありますからね。

自分で自分のことを”役立たずだなぁ”と言っている分には自由でありますからね。

役に立たないからこそ自由にやれるところがあるんですよ。

 

役に立ちすぎると翻弄される

役立つことをしていくことが一つの使命です。

役立つというのはとても素晴らしいことです。

そういった役割を持っている人はその役割を大切にすることがとても大事に思います。

使命ですからね、とても素敵なことです。

最初に、私は役立たずです、と書きましたがそれでも役にたっていることはあります。

逆に、役に立っていることでも誰かにとっては邪魔でしかない場合もあります。

難しいですね。

細かいことは置いといて、役に立ちすぎると翻弄されることも多くなります。

そんな変な話を書きます。

 

老子の話より

老子の話でこういった話があります。

切られずに残っている木についての話です。

老子は弟子たちに、なぜその木は切られていないのかをたずねてくるように言った。

彼らは樵のところに行ってたずねた。

すると、彼らは言った。

「この木はまるで役に立たない。

枝という枝に節があり、これからはなにも作れない。

まっすぐな枝がひとつもない。

燃料にすることもできない。

煙が目の毒だからね。

この木はまったくの役立たずだ。

だから切らないんだよ」

どう思いますか。

残念に思いますか。

安心されますか。

弟子たちが聞いた話を老子に伝えると、続けて老子はこのように答えます。

 

弟子たちは戻って老子に伝えた。

老子は笑って言った。

「この木のようになるがいい。

お前たちが役に立ったら、

切られてどこかの家の家具になってしまうだろう。

お前たちが美しかったら、市場で売られて商品になってしまうだろう。

この木のようになるがいい。

まったくの役立たずに……。そうなったらお前たちは大きく

大きく成長して、何千もの人びとがその下に木陰を見いだすだろう」

「この木のようになるがいい」と宣言されるのがカッコいいですね。

 

役立たずが世界を変える

いかがでしょうか。

老子というのは本当に違った角度から話をしますよね。

損することこそ道である、みたいなことも言ってますしね。

世間に対して共感を持たずに、新しい世界観を提示してくれています。

役立たずのままでいい。

役立たずままでいることで、新しい価値を生み出すことができる。

その新しい価値こそが、実は本当の価値なのではないのかと。

自分というものがないかのように振る舞うようなことを老子は説きます。

自分の価値を証明する必要はないのかもしれません。

今の世界では、いかに価値があるかを説明することが多くあります。

ビジネスでも「バリューは何か?」とよく問います。

それに対して、老子は価値がなくてもいいと言ってます。

価値がない方がいいとも言っている風にも聞こえます。

いかがでしょうか。

役立たずのまま大木になり、何千人もの人に安らぎを与えられる人生も面白そうですね。

そちら側の人生の方が私はワクワクしてしまいます。

 

終わりに:損する道を歩む

「損すること」をすることができますか。

明らかにこれから損するとわかっていることは人はなかなかできないものです。

では、損してでもやりたいことはありますか。

損してでもこれはやりたいと思えることです。

損してでもやりたいことがある人は幸せに思います。

損してでもやってしまえばいいと思います。

そのぐらいの意識レベルのことをやるのであれば、案外損をしないものです。

老子の道は損する道です。

損する道を歩むと逆説的に、損の先の徳が見えてくるのかもしれませんね。

「損するけどやりたいこと」をやるのもオススメです。