世界の悪や闇について批判しても仕方がない、という感覚があります

ヨガイントラで食べること

私は「実践をしよう」ということをいう実践主義者のようなところがあります。

正面から悪を否定しても何もならないのではないかと思っています。

否定してはいけないということではありません。

ある種の諦めのような感覚で、結局のところ否定しても意味がないと思っています。

仮に否定する活動を通じて何かしらの成果が上がったとしても、それは一時的なことであり、また同じく悪は繰り返される(形は変わることはある)と思うからです。

実践を志向する人ではありますが、わたしも人間なのでイライラしたり悪に対して意見を言ってしまうこともあります。

結果としては無意味なのでしょう。

実践をしていこう、というのが一貫した私の考えとなっております。

 

ヨガも実践していこう、という立場です

ですので、ヨガも実践しようという志向性です。

理屈や理解も大事ですが、それはあくまでも実践のためのヒント。

実践の中でしか掴めないものがあると思っています。

そして、ヨガやヨガ哲学は実践の中で掴むものだと思っています。

ヨガというのは「ヨガについて調べて詳しくなること」ではなくて「ヨガを実践していくことでわかってくること」だと思っているからです。

それは言葉にならないこともあるので不安に思う人もいるでしょう。

でも、ヨガというのは実践を通じて自分の身についていく「何かしらの手応えと実感」だと思うのです。

これはヨガをやっている人の全員が納得してもらえることにも思います。

 

ヨガの手応えを信じる

ぼくは弱い人間です。

弱い人間のため、ヨガや瞑想を実践されている人たちで革命のように大きな転換が起こるのではないかと望んでいます。

悪を駆逐するような革命です。

そもそも善悪というのはただの主観で、客観的な善悪があるわけではありません。

ですので変んな言い方になってますが、何かこう一気に世界が変わるようなラッキーなことが起こるのではないかと思ってしまいます。

思ってしまう反面、そんなこと起こらないと知っています。

革命は起こらないのです。

そういうことではないんです。

地道にコツコツと目の前にあることを片付けていくしかないのです。

雪かきのように、雪がこんこんと降り続いていても、積もり過ぎたら大変なことになるので雪かきをし続ける。

ヨガや瞑想というのはそうやってやり続けるしかないと思っているのです。

 

アドレナリン過多から離れる

現在(2023/10/02ころ)の世の中ではアテンションエコノミーが優勢です。

アテンションエコノミーというのは関心や注意をどれだけ集められるかそれ自体が目的化されたような経済です。

ヨガインストラクターやヨガスタジオという東洋思想的なものを深めようという方々でさえ、いかにアテンションエコノミー的に成功するかを頑張っています。

人の興味関心をいかに惹くことができるかに躍起になっている。

意識的にも、そして無意識的に身体に刷り込まれてしまっている。

こういったことに違和感を覚え、過剰な世界から身を離して、そしてもっと肉体や感覚の世界で社会と向き合っていくことをヨガや東洋思想ではやっているのに完全に飲みこまれてしまっている。

ヨガクラスでは「呼吸に意識を向けて今ここにありましょう」と言うのに、SNSでは人の注意を惹くために過剰で過激なことをして「いまここから人々を引き離す」ことに注力している。

恐ろしいことに思います。

 

再度言いますが、仕方のないことに思っています。

すでにこれが「事実を伝える」を超えて「批判的な文章」を書いてしまっているのかもしれません。

それでも、ヨガという実践的な哲学のようなものをやっていくのなら、ライフスタイルとして目の前で起こっていることに対して実践していく雪かき仕事のような取り組みが必要だと思います。

それをやり続けることが最善を尽くすことになるのだと思います。

 

終わりに:世界の革命は起きなくても、自分の中での革命は起こせる

淡々とやっていきましょう、というと聞こえはいいですが、難しいことは承知です。

ヨガを教えている人というのは何を目的としてやっているのでしょうか。

これはヨガだけの話しではありません。

さまざまな職業から役割まで考えることが必要なことに思います。

その目的の先に何があるのでしょうか。

そのビジョンのようなものは何でしょうか。

そこに向かって、役割を全うしようとできているのでしょうか。