瞑想は何を得るかではなく、今握っている手を放すこと

瞑想を深める

瞑想をやられていますか?

瞑想はとても良いので、ヨガと一緒で、是非、習慣にして頂きたいと思っています。

瞑想はくつろぎの状態ですので、過剰に疲れている体や精神をほぐすにとても良いと思います。温泉に浸かりに行くような気分で瞑想できると最高ですね。

瞑想の直接的な目的はそこ(疲れている体を労わること)ではないのですが、とても有効に思っています。

ビジネスマンの間でも流行っているのは、実際的に脳が休まり、身体にも休息があるからだと思います。

 

瞑想のイメージどのようなものでしょうか?

瞑想と聞くとどんなイメージがありますか。怪しいですか。怖いですか。

または、リラックス法ですか。

瞑想は、得るものではなく手放していく方向性を持ったものです。

(実際は、得るも手放すも何もないのですが、)基本的には手放す方向性を持ったものです。

すでに抱えている、抱え込んでしまっている思い込みや観念、を手放すことです。自分で常識だと思っていることと言い換えてもいいと思います。

それらを手放ししていく行為になります。

ですので、何かを得るためにするものではありません。得るのではなく手放す。足すのではなく引く。このような発想です。

瞑想が深まってくると、起こることが起こってくるという実感が湧いてきますので、手放そうと頑張るとか、何か力むとか、そんなに気にする必要はありません。

 

瞑想は知識を得るものではない

瞑想は知識を得るものではありません。

瞑想を通して自己を見つめるのですが、その自己の消滅が瞑想です。

得るということは、得る人が必要ですね。気づくということは、気づいている人が必要ですね。

その本人、主体がいなくなるのが瞑想です。

知識を得る方向ではないので「知識を得ることが幸福である」「時間は何かを手に入れるために使うべきである」と思っている人は瞑想をするのが嫌でしょう。時間を無駄にしてしまったと感じるのですね。損をしたくありませんからね、人は。

瞑想というのは、そう言った世俗の欲を満たすのとは少し方向が違うので、とっつきにく人もいるかもしれません。

瞑想は無為になること

 

ヴィパッサナー瞑想は主体を見つめる訓練

ヴィパッサナー瞑想は、主体を見つめる訓練になります。

だから、客体の視点から主体を見つめ続けます。

ヴィパッサナー瞑想は、まだ「私」がいる状態なのですね。自力の瞑想になると思います。

究極は他力の瞑想です。すべてを委ねるということですね。

これを仏教では帰依といったりしますね。南無○○(南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経など)は○○に帰依するという意味です。

帰依というのは降参であり、すべてを委ねることであり、諦めることです。

ヴィパッサナー瞑想は、客観的に私を見つめることで、この境地へと向かっていく瞑想になります。

ご興味のある方はヴィパッサナー瞑想もいいものなので、参加されてみてください。

10日間にわたるヴィパッサナー瞑想合宿@京都に乗り込んだことで、静寂を持ち運べるようになってきた

 

補足:瞑想後は代謝が下がっているのでご注意

瞑想の後は、代謝が下がっているのでご注意ください。

直ぐに、目を開けて行動するのではなく、目をつぶったままで先ずは呼吸を深めてみてください。

そこから、体を揺すったり、軽く動き始めたりして代謝を戻してから起きるようにしましょう。

深く瞑想に入っているときほど大切です。いきなり目を開けると体がびっくりしてしまいます。

寝起きにいきなり叩き起こされるような状態になってしまうので、しっかりと起きた状態で目を開けるようにお願いします。詳しくは以下の記事も参考にされてみてください。

瞑想が終わったあとに、ぼぉ~としてしまうのですが、大丈夫でしょうか?【ヨギボズQA】

 

終わりに:何もしないということ

何もしないということを言ったら「何をしたら、何もしないことになりますか?」というヘンテコな質問をもらったことがあります。

冗談だったのかもしれませんが、そのぐらいに「する」ということを通してしか、コトは成就しないと考えているのかもしれませんね。

瞑想の大切なことは、手放すことです。これはやめるということです。新しく行動を起こすわけではありません。

手を放すだけですね。握っている手を放すことです。やめるということです。

このようにして瞑想状態になるということです。

手放す、やめる、諦めるという方向性で瞑想をされてみてください。

心地よさも変わってくるかと思います。