ヨガをやってきました。
30才過ぎで会社を辞めてヨガ専任になりました。
そうして今もヨガ(BORN TO YOG)を続けております。
ヨガはレジリエンスを高めてくれるのだなと、フリーランスになってから特に観じました。
フリーランスでやっていると、いろんなことが起こります。
「こんなこともあるのか」ということが起こります。
大概は大丈夫なのですが、なかなかしんどいこともあるのです。
フリーランスの方だけでなくても、ビジネスマンでも普通に生活していても何かとあるものですけど。
とにかく、思いもよらないことがあるわけですね。
社会というか人生の仕組み上、仕方ありません。
そういった時に、疲れ切ってしまったり、多少の落ち込みをするわけです。
大抵の場合、身体を動かして美味しいものを食べて、内観して、早々に寝てしまえば大丈夫です。
そして、それがまた案外、大丈夫に過ごせるのでした。
もっと引きずるかなとか落ち込むかなと思ってもかなり大丈夫です。
なぜでしょうか。
おそらくヨガや瞑想(SUWARU)のおかげですね。
ヨガ(BTY)や瞑想(SUWARU)は淡々とやるもの
ヨガや瞑想はこのレジリエンスを高めてくれるのだと思いました。
とても心強いツールだと思います。
レジリエンスというのは回復力とか復元力という意味の単語です。
悲惨なことや災難に見舞われたあとに、立ち直る時の力ですね。
こういった力をヨガや瞑想は高めてくれるように観じます。
実際にヨガや瞑想をやられている人はどうでしょうか。
レジリエンスを高めてくれる感覚はあるでしょうか。
私がやっているヨガはBORN TO YOGという呼ばれるもので、かなり自由度の高いものです。
自由度が高い分、その人のヨガへの取り組むセンスが問われてしまうのですが、やっていて自由度が高いとそれだけ楽しく、そして楽観的に取り組めます。
楽観的に取り組めることもレジリエンスには大事なようです。
楽観性が高い人は回復力も高そうですよね。
実際に高くなるようです。
あと、ヨガや瞑想は淡々と取り組むものです。
この一喜一憂せずに淡々と取り組むのも良さそうです。
関連記事:ヨガでも「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を錬とする」というところを目指したいので、私は淡々とゆっくりとやっていきます
ヨガは思考の柔軟性も高める
思考の柔軟性もレジリエンスを高めます。
そりゃそうですよね、思考が固いよりかは柔軟な方が高めてくれそうですものね。
思考の柔軟性は意外と難しく思います。
ヨガでいえば、流派ごとの教えがあったりします。
それを「なんでもありだよね」とは言いにくい。
やはりグルからの教えがありますし、伝統もあるでしょう。
そこを柔軟にやっていけるような思考性を持てるといいですね。
様々なヨガの文献はありますが、ヨガは所詮はヨガです。
そういった視点を持つ必要があります。
バカにしているのでも、ダメだと言っているのでもなく、ただヨガはヨガでありそれ以上ではないという意味です。
それを言ってしまえば、全部そうかもしれないですけど。
その素晴らしい教えを凝り固まった思考で読み解こうとすると外れてしまいます。
柔軟な思考が必要だと思います。
ヨガに触れていると自然と柔軟になるのだと思います。
柔軟にやっていないと続かないし、変な理解になるし、身体も固いままだし、アサナも一部のアサナがずっとできなかったり、瞑想が深まらなかったりするからです。
よくできております。
ヨガや瞑想で思考は柔軟になる
ですので、ヨガや瞑想を続けていくと、柔軟な思考も得られるといいます。
ヨガや瞑想はどんどん削ぎ落としていくものなので、自然と柔軟になります。
こだわりが減ります。
欲も減ります。
ルールも減ります。
縛るものが減ります。
そうすれば、自然と柔軟にはなっていきます。
そういった縛りを手放して落としていくのがヨガや瞑想ですからね。
余計なルールを増やすことなく、減らす方向でヨガや瞑想ができるとレジリエンスも高まることでしょう。
そうやって深めていけるといいですね。
終わりに:現実的に対処するだけ
ヨガや瞑想をすると問題の解決ができるわけではありません。
各々の課題を取り組まないと解決されません。
ヨガや瞑想をすると解決への糸口が見えたり、気にしていたことを気にせずに取り組めたり、集中して対処できたりということができるだけです。
もしくは、そもそも課題が課題でもなかったと気づけることもあります。
そういうものです。
魔法の杖ではないので、しっかりと自分で対処する必要があります。
その対処の仕方や方向性でヨガや瞑想の効果が期待できるかと思います。
人によってはヨガ哲学が有効に働くこともあるでしょう。
実際には現実に対処することです。
目の前のことに取り組むことが大切です。
それがヨガ哲学でもあるのですからね。
あなたの職務は行為そのものにある。
決してその結果にはない。行為の結果を動機としてはいけない。
それゆえ、執着することなく、常になすべき行動を遂行せよ。
実に、執着なしに行為すれば、人は最高の存在に達する。