ヨギボズQAとはEngawaYogaオーナーKiyoshiと高野山真言宗の阿里僧侶が読者の質問に対して回答したもの(ヨギーとボーズの回答集)となります。
その場のノリに任せて回答しておりますので至らない点や少々眉をひそめる回答もあるかもしれません。
寛大な心でお読みいただければと思います。
ヨギボズQAの回答集は以下にございます。
ご興味があればご覧ください。
では今回の内容をどうぞ。
もくじ.
質問:瞑想中、雑念ばかりでヤバイです(T.T)
なるほど。そういうこともあるかと思います。
こんなことを書くと怒られるかもしれませんが、でも顔文字を使っている時点で大丈夫だとも思いますけどね。
それでは、以下の回答をご覧下さい。
回答:瞑想は心の毒だしなのでほうっておきましょう BY KIYOSHI
好転反応のように出ることを喜んでみてください。出れば出るほどに記憶が浄化されていると思えば、それでいいじゃないですか。
実際、瞑想は記憶の整理にとても有効だそうです。
頭の記憶を机の上の書類だとすると、瞑想することでその書類を片付けて奇麗にしていくようなイメージです。
実際に部屋等を片付けていくときに、どうしても書類は目につきますし、ホコリもたちます。
それが雑念だと思ってもいいかもしれないです。
雑念のほとんどが過去のエネルギー
雑念って過去なんですよね、ほとんどが。本当に瞑想が深くなって、未来とか本来の役割りとかが発見できることはありますが、まずは雑念はすべて脇においておきましょう。
過去は終わったことなんですよ。なので前を向いて生きていく為にも、雑念はゴミ箱に捨ててしまいましょう。
後ろ向きに歩くと怪我をしてしまうように、前を向いて歩いてみることをオススメします。
無理に前を向くというよりも、何にも考えずに、前を向く感じです。
とにかくリラックスですからね。
雑念にエネルギーを与えない
人が意識を向けたものにエネルギーが注がれます。
集中してパソコンをやっていると猫がよってきますよね。新聞を読んでいると、新聞に乗ってきますよね、それはエネルギーを感じているからです。(たぶん)
冗談はさておき。人が意識を向けたところにエネルギーが宿りますので、雑念に意識を向ければ、雑念にエネルギーが宿ります。
エネルギーを蓄えた雑念が大きくなっていき、無視できないレベルまでになっていくかもしれません。
ですので、雑念は、脇に置いておきましょうということです。
瞑想中では流すことですね。掴まずに、意識から次へと流してしまうのです。
雑念が大事だと思うから流せない
意識を向けたところにエネルギーが流れますので、雑念に意識を向けること自体をやめないといけません。
なぜ、雑念が気になってしまうのか。それは雑念だと自分で思っておきながら、そうは思っていないということもあるかもしれません。
気になっているのは事実ですからね。雑念に意識が向いてしまっています。
人はあらゆるものに意味付けをしてしまいます。すべては平等に起こっているし、その意味付けもあなたが決めたことです。
物事、それ自体に意味はありません。ですが、あなたがそこに意味を見いだせば、その物事に意味が生まれるのです。
雑念に対して意味を見いだしてしまっていませんか。
では、雑念をどうするか
雑念はほっておきましょう。それに限ります。
無視するというよりも、ほうっておくのです。
ほうっておくことでしか雑念の消化は起きません。
雑念が課題だという人もいますが、人はいつでも課題を抱えています。
雑念が課題なら一生雑念瞑想をすることになります。課題と思わずに距離をおくようにするのも効果的です。わたしのオススメは、問題にしないということです。気にならないところまでいくということです。
良寛和尚も言っておりましたよ、ほうっておけと。
質問者さんは、雑念がすごくても瞑想への可能性を感じているのだと思います。巷に溢れる過剰な売り文句ではなく、体感としてなんとなく自分の生活に必要なんだと思っているのだと思います。
その「なんとなくこっちなんじゃないか。こちらの道を行けばいいのではないか」この感覚こそ瞑想的とも言えます。
何かのヒントになれば幸いです。
難しく考えずに、雑念はほっておきましょう。
回答:雑念ばかりでヤバいよヤバいよ BY 阿里坊主
瞑想すると、集中できる時は集中できるのですが、時として雑念だらけだったりすること、ありますよね。
その気持ち、すんごいわかります。
だって私も凡人ですから。悟りになかなか到達できないTHE・凡人ですから。
そんなですから、瞑想も「雑念だらけでヤバい(T.T)」時もあります。
それどころか「雑念だらけでヤバい(`皿´メ)」ぐらい思ってます。
わかります?この私の気持が顔文字から。
「自我」というものがあります
さて、雑念について書く前に「自我」について説明します。
私たちの体には「自我」という機能が備わってます。
こいつがちょいと優秀な奴なのですが、実は同時に暴走も結構する奴なのです。
暴走というのはどういうことかと言うと、「自分」が本当は思っていないようなことでも、勝手に「自分」のフリをして考えを進めていってしまうのです。
例え ば、すごい怒ることがあったとして、誰かに怒りをぶつけたりしちゃったりして、後から「あんなに怒ることだったかな…?」とか後悔することありませんか? (わたし超あります)
それは「自我」が、勝手に「自分」のフリして、感情を暴走させているからなのです。
「自我」は認知機能を考える上で必要不可欠なのですが、その一方で感情や不安を増大させてしまうのです。
苦しみの原因になったり、暴走するとうつ病やパニック障害などの一因にもなります。
「自我」は勝手におしゃべりし続けている
「自我」というのは、「自分」ではないのに、勝手に「自分」のフリをして、四六時中ずーっとおしゃべりしています。これは人間に備わった体の認知機能としてしょうがないのです。
しばらく何も考えないでって言われたら「何も考えない」「何も考えない」「何も考えない」ってずーっと考えちゃう人いますよね?(わたし超あります)
これも「自我」が勝手におしゃべりしているからなのです。
つまり、瞑想中の雑念というのは「自我」さんが勝手におしゃべりしているからなのです。
瞑想というのは、その「自我」さんをなだめて落ち着かせ、おしゃべりに埋もれてしまった自分の本当の心の声を確認する行為とも言うことができます。
雑念への対処法
そんな「自我」のおしゃべりである雑念への対処ですが、これは瞑想でのコツと一緒です。
1にリラックス(調身)、2に呼吸(調息)です。
体に力が入っていると瞑想には入れません。また呼吸が落ち着いていないのも同様です。
瞑想に入れないというのは「自我」がまだ落ち着いてないということなのです。
ゆったり力を抜いて、大らかに呼吸へと意識を向けることが、雑念をおさめるコツです。
逆に瞑想をうまくできないという人は、ここがうまくできないということが多いです。
ここをしっかり重視して取り組みましょう。
しかし、それでも「自我」はすぐにまた動き出したりします。落ち着いたと思ってもまた雑念が出てくることがあります。
こういう時は、雑念自体を客観的に見つめましょう。
「晩ごはん何しよう」と、考えた。「明日、仕事ぜんぶ片付けないと」と、考えた。「あ、雑念でてきたかも」と、考えた。「客観的に見つめてます」と、考えた。という感じで、とにかく浮かんできた雑念を、そのまま受け止めて、そのまま見つめます。
最後に「~と、考えた。」はつけてもつけなくても良いのですが、この方法は雑念や感情と距離を置くのに有効です。
これはマインドフルネスや認知行動療法で使われるテクニックで、「自我」の暴走に巻き込まれないために簡単で効果の高い方法なのです。
瞑想だけでなく日常の場面でもおすすめです。
それでも雑念が止まらない時
「自我」をなだめているのに雑念が止まらない時は、その雑念はもうただの雑念ではないかもしれません。
あなたにとって重要な意味を持っている事柄かもしれません。
おさえようとするものではなく、むしろ興味と関心を持って雑念を観察するのも良いと思います。
ある事柄の意味や背景を深く思索することは洞察瞑想とも言われており、それも瞑想の一つです。
生きるということ
「肉体は魂の牢獄である」と古代ギリシャの哲学者プラトンは言いました。
「自我」というのは体に備わった機能です。
体に備わった機能というのは、生きている上でどうしても避けられない苦しみになります。
仏教でいうところの四苦八苦の一つ、五蘊盛苦(ごうんじょうく)です。
生きている以上、肉体があるがゆえの苦しみから逃れることは決してできませんが、しかしその苦しみを和らげる方法が瞑想であると思います。
「自我」から逃れることはできませんが、瞑想をし「自我」と仲良くすることが、より良く生きる上で重要なことと思います。
雑念とも仲良くお付き合いしていきましょう。
終わりに
不定期ですが、まだまだ更新していきますので少々お待ちください。
「ヨガをより楽しめるように」
「瞑想がより起こりやすくなるように」
「日常生活の深刻さが減少するように」
ご活用頂ければうれしく思います。
それではより素晴らしい日々が送れることを祈っております。
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