既成概念というものを誰もが持っていると思います。
既成概念が自らの固定観念になっている方もいらっしゃると思います。
私もたくさんの既成概念を自分の中に取り入れてしまっています。
既成概念を取り入れているから社会的に生きていけているわけではありますので、それはそれで既成概念を持つことの陰陽あるわけです。
自分を開く方向へと向かうなら、この既成概念をいくつか外してみると良いと感じます。
外してしまっても、どうせ大したことにならないので、自分をもっと開くために外していきましょう、というのが今回の記事の趣旨です。
よくあるわかりやすい例えで言えば「子供が学校に行くのがいいのか、行きたがらないなら行かないでいいのか」とかですね。
本田健さんが子供が学校に行かないと言い出したらどうするか、という質問に対して「別にどちらでもいいんじゃないですか。選択肢はいくらでもあるわけですし」というニュアンスのことを答えていました。
そうですよね。学校の行く行かないが問題ではないですからね。
行かない人も、行く人もそれはそれで体験があると思います。
行くことが当たり前というのが日本の学校事情では既成概念になっているかと思います。
でも、そこが本質的に問題にはなりませんね。
そういうのを俯瞰してみれるようになると楽に生きられると思います。
補足:本田健さんの紹介
神戸生まれ。経営コンサルティング会社、ベンチャーキャピタル会社など、複数の会社を経営する「お金の専門家」。独自の経営アドバイスで、いままでに多く のベンチャービジネスの成功者を育ててきた。育児セミリタイア中に書いた小冊子「幸せな小金持ちへの8つのステップ」は、世界中130万人を超える人々に 読まれている。『ユダヤ人大富豪の教え』をはじめとする著書はすべてベストセラーで、その部数は累計で300万部を突破し、世界中の言語に翻訳されつつある
もくじ.
過去の自分が持っている価値観をやめる
人というのはそれぞれ固有の価値観というのをたくさん持っています。
たくさん持っている価値観が悪さをしていることがあります。
固有の価値観というのは自分の中で当たり前になっているので、俯瞰して見ないと気づけないので、普段は気づきにくいですね。
先ほどの学校に行く行かないという話もそうです。
あまり意味がないのにこだわってしまうという形で露呈してしまいます。
学校は例えですけど、会社に対しても同じ考えの人がいます。
会社は休んではいけない、とか。
皆勤賞をとっている人なんて、絶対に休んでいけないという価値観を持っています。
それが悪いことではないと思いますが、選択できないのは不自由に感じます。
自分で中庸にたって「両方の価値観があり、それで今はこちらの価値観を採用している、なぜならば◯◯だからです」というぐらい俯瞰して見れているといいですね。
「この価値観だけがいい」という”だけ”が出てきてしまうと苦しい。
自由がないのは苦しい。
そこに気づくと楽になると思います。
良い加減で生きるのがいいのではないですか
頑張る、頑張らないという話がありますが、良い加減で生きるのがよろしいかと思います。
自分にとっての良い加減です。
良い加減ってすぐにわかりませんね。
私も模索中です。
仕事のしすぎになるタイプなので、どちらかというと休むことを意識的にしないといけないタイプです。
皆さんはどうでしょうか。
怠けるのが癖の人もいますね。
怠けることができる人を昔は羨ましかったですね、なんでこのまま問題になることを放置できるのかと。
私は勘違いしていました。
そのまま放置しても、実際はほとんど問題にならないのです。
案の定、問題になっても大火事のようなことにはならず、周りの人含めて一緒に対処してなんとかしているものです。
良い加減というのは、いい加減です。
いいさじ加減ということです。
いいさじ加減だけでは、おそらく突き抜けることはできないと思いますが、突き抜けたい時には突き抜けるさじ加減を選択すればいいのです。
突き抜けるために、今は仕事をしまくるぞ、というのも選択です。ありです。
それがその人の今の良い加減なのです。
だから、なんでもいいというとそうでもありません。
先ほどの既成概念です。
何が当たり前になっていて、他の選択肢が無くなっているのかです。
選択できてなくて、無意識でやっていると辛い。
例えば「突き抜ける」と決断して決心しておきながら辛そうなのは何かひっかかっています。
ねばならない、が隠れているかもしれません。
頑張らないといけない、が隠れているかもしれません。
突き抜けないとヤバい、が隠れているかもしれません。
どんなことにも陰陽ありますから、何を選択してもいいのですが、選択自体ができないと辛いです。
要するに周りの価値観、概念から強制的に選択させれてしまっているということに気づけていないということです。
意思決定している、ということが人には大事です。
不快なストレスでさえ、自分でコントロールしているという実感があるとかなり弱まるのも実験でわかっています。
選択肢があること、それを選択できること、それに気づいていること、とても大事です。
努力をやめるというのは、何もしないことではない
努力をやめようという話も最近では聞きます。
2000年代に入ってから特に聞くようになった気がします。
努力というのは、嫌なことを歯をくいしばって行動すること、です。
ポイントは嫌なことです。
好きなことを一生懸命にしていることは努力とは呼ばないようです。
だから、努力はいらないよ、という話が巷に溢れてきたわけですね。
今の時代では、インフラや環境が整い好きなことをやってお金を稼ぐのが容易になってきました。
だから好きなことをして個人の能力を磨いて暮らしていくことが可能になりました。
好きなことが仕事にできるようになったわけです。
事業にしなくてもいいのなら個力でかなり突き抜けることが可能です。
努力不要というのは努力しても意味がないからです。
嫌いなことを一生懸命にやっても、好きなことを適当にやっているよりも成果が出ないからです。
インフラや社会環境を使って努力せずに好きなことをめっちゃやりまくって欲しいと思います。
BORN TO YOGでは、このような考え方を採用しています。
才能は個人個人持っていて、それを花開くことはできるということです。
個力でも突き抜けられるのを応援しております。
終わりに:BORN TO YOGは既成概念を外すメソッドだと感じる
私(Kiyoshi)がBORN TO YOGをやっていて、枠が外れたなと感じることがあります。
BORN TO YOGはスタイルとしては、当然ヨガなのですが、考え方が本来のヨガに実は近いと思います。
本来のヨガってもっと野生的だったと感じます。
ヨーガスートラ(ヨガの根本経典)でも修行することの連続ですし、シッディと呼ばれる超能力のようなものも発揮できることが書かれています。
空を飛べることも書かれています。
ヨガをしっかりとやっていこうと思っている人は、空中浮遊や空中歩行、心臓を止めることや体温を調整すること、などなどできると思っていないとおかしいと感じます。そして多くのヨギーはできないと思っています。
そういった超能力的なことが経典に書いてあるのですから、自分の狭い度量衡で「これは信じるけど、これは信じない」というように判断するというのは何もヨガをやっていない証拠になります。
例えばキリスト教の信者が聖書に書かれていることを自分の判断で「この文章は正しいが、この文章は間違っている。この教えは私は信じるが、この教えはおかしいので信じない」などと言いませんよね。
わからない文章や箇所がきたら「私の知識や体験、修練がたりないのだ。もっと取り組もう。知らないことがあるに違いないからもっと勉強しよう、もっと祈ることで身を捧げていこう」というように判断すると思います。
ヨガも一緒です。
経典に書かれていることを自分の枠組みで判断し、私の方が賢くて物事を見極めることができるという思考からジャッジが始まるのだと思います。
BORN TO YOGではそのように判断しないことをオススメしています。
自分の枠組みで物事を判断せず、いろんなことにオープンに取り組むメソッドです。
だから一人一人の個性を活かす方向へとつながります。
一度遊びにきてみてください。