「先生はえらい」って知ってましたか?

ヨガイントラで食べること

いきなりなのですが、先生はえらいんですよ。本当に。

こちら、オススメ本です。先生など教えることに関わる方は必読かと思います。

先生がえらい、ということですが、わたしがヨガインストラクター業(先生側にいるから)をしているからって、わたしがえらいんではないですよ。

先生という機能が、そもそも”えらい”ということを前提にされているということです。

「先生はえらい」を理解しておくと、先生という機能が活発に動き出すということが始まります。

この本は、全体的にコミュニケーションの本でもあります。

師弟関係というのは恋愛関係と同じなんですね。(たぶん)

この本で言及されている先生は、一般的には師という存在をイメージされています。だから、先生論であり師弟論になっています。

 

はじめに:内田樹さんを知ってますか

わたしの尊敬する方のひとりに内田樹さんという方がいます。

内田樹さんは、現代思想家であり神戸女学院の名誉教授です。合気道家でも知られており凱風館を作られて、そこで合気道、能、ゼミなどを開催されている方です。第三回の伊丹十三賞も受賞されています。

webサイトはこちらになります。 → 内田樹の研究室

合気道の道場も作られており思想も身体感覚に根付いた思想で、とてもわかりやすいです。

ものの見方の勉強にもなります。

ヨガインストラクターで悩んでいる方はこの本「先生はえらい」を一読することをオススメします。また日本辺境論で新書大賞も受賞されております。こちらも重ねてお勧めです。

KIYOSHI
それから内田樹さんの書籍全般をオススメ致します。私が影響を受けた思想家のひとりです。結構、同じコトを言ってます。汗

日本辺境論もいろんな方へプレゼントというお節介をさせてもらいました。

この本を読んで、学びということがどのように発動するのか、というのが少しわかりました。

弟子が師匠を決めるのではなく、師匠が弟子を決めるというのも、わかった気がします。

もちろん、見た目的には、弟子が師匠を選んでいます。そして、実際には弟子が師匠を決めていいんですよ。全然構いませんし、そのようなことは起こります。

ですが、本来、師匠の方が弟子よりも知恵も学びも体験も、圧倒的なアドバンテージがあるものですから、それなのに弟子という立場で選らべるわけがないのです。

弟子の度量衡で師匠を理解し選べのが原理的に無理なため、結局は「師匠が弟子を決める」と言ってもいいのではと思います。

 

とにかく、先生はえらいんです

先生が絶対的な存在ではなくなって久しいですね。

わたしの学生時代には多少は怖い先生もいましたが、そこまで絶対的な畏怖があったわけではありませんでした。

先生はえらい、とういのは同語反復だと内田樹さんは言います。

そもそも、えらいのが先生だということです。はじめにも書きましたね。

どんな先生もえらい、ということです。先生という立場に立つ、それだけで教えることができ、教わることが起こるというのです。

自身の問いに答えを出すのは弟子自身の仕事です。師は「説教壇の上から」出来合いの学問を教えるのではありません。師は、弟子が答えを見出す正にその時に答えを与えます。

フロイトの技法論〈上〉

先生はえらい、というのは先生をしている人がえらいのではありません。

先生そのものがえらいということです。軸足が人ではなく”先生”なのです。

このコペルニクス的発想が画期的でもあり、とても面白いものですよね。

先生はえらい、からスタートすることで学びが発動するのです。勝手に学ぶことを始めるのです。それは先生が教えてもいないことを。

また、ジャック・ラカンさんを引用させてもらいますね。

「私が皆さんに理解できないような仕方でお話する場面があるのは、わざととは言いませんが、実は明白な意図があるのです。

この誤解の幅によってこそ、皆さんは、私の言っていることについていけると思うと、言うことができるのです。つまり、皆さんは不確かで曖昧な位置にとどまっておれるのです。

そしてそれがかえって訂正への道を常に開いておいてくれるのです。

言葉を換えて言えば、私がもし、簡単にわかってもらえるような仕方で、皆さんが解ったという確信をすっかり持てるような仕方で、話を進めたら(…)、誤解はどうしようもないものになってしまうでしょう。」

精神病〈下〉ジャック・ラカン 岩波書店

 

「先生はえらい」から学びが発動する

engawayoga-20160326-sotoyoga-2常に訂正への道が開かれていることは大切なことです。

教えてもらったことを、どのように解釈するかは生徒に委ねられています。

そして、先生が教えようとしていないことを生徒が学ぶのです。結果として。

「先生はえらい」というのは、信仰にも似ているし、恋愛にも似ていると思います。

えらいと思った人に、先生としての機能が働くからです。

えらいと思うことで機能するのですね。

あなたが、先生と認めた人も、隣の友人は認めないことがあると思います。そういうものです。

ですが、えらいと認めたら、その人には激しいほどの学びが発動します。本当の学びが生まれるのです。

わかりますか。あなたが先生と、ある人を認めることで、学びの機動力をもたらすのです。

また、師匠を決めたら変更できません。

この師匠は駄目だという判断が存在しなくなるからです。

師匠の方が、「絶対的にすべてをわかっている」という前提が発動するからです。

「あの人は駄目だ、わかっていない。わかってくれない」というのは師匠に向けて発することは原理的にありえないのです。発している場合は、そもそもその相手は師匠ではないということです。

 

風通しのよい書籍はそれだけで読む価値がある

このような書籍ですけど、とっても風通しがいいです。

文章がすっきりとしていて読んでいて気持ちがいいのです。

ちくまプリマー新書は中高生に向けた新書なので、とにかく読みやすいですよ。

中高生向けということで、体裁を整えるのに色々と工夫されているのでしょうけど、それでも風通しのよさはいい感じです。

これだけで一読の価値ありです。

みなさんも今までの人生の中で尊敬する先生はいたことでしょう。

その先生は何を教えてくれたのでしょうか。知識でしょうか、何でしょうか。

まず、はじめにいちばん大切なことから。

「誰もが尊敬できる先生」なんて存在しません。

昔からいませんでした。「絶滅寸前種」どころか、はじめから存在しなかったのです。

はじめから存在しなかったものを「存在しなくなった」と文句を言っても仕方がありませんし、それで何ごとかを説明することもできません。

 

 

このような入り方です。なかなかいいでしょ。わくわくしてきますね。

 

最後に:著者からの一言を記しておきます

ヨガというのは何を教えているのか、そのあたりに関して考えるきっかけになる本だと思います。

どんなに情理を尽くしてしゃべっても、聞いている人は全く異なる解釈で理解されたります。

そういうものである、というコミュニケーションの勉強にもなりました。

先生はえらいということ、学ぶということ、そして師弟関係について知りたい方は必読です。

最後にこちらの書籍の内田樹さんからの一言を載せて終わりたいと思います。

著者からひとこと

この本は「ちくまプリマー新書」という中高生対象の新しい新書シリーズの一冊として書かれたものです。

「いまどきの中高生に何か言いたいことがありますか?」と筑摩の編集者に尋ねられたときに、「『先生はえらい』かな・・」とぽつりと答えたのが、この本のきっかけになりました。

タイトルからおわかりいただけるようにこれは師弟論です。
教育論というのは世に多くありますが、師弟論というのは、最近少ないですね。
というのも、「先生はえらくない」ということがいまの日本ではほとんど常識になっているからです。

「教育基本法を改正せよ」「教育勅語を復活せよ」などと言われるみなさんはもちろん、「教師だって生身の人間だい」「教師は労働者である」という方向に力点を置かれるみなさんも、とりあえず「先生はそんなにえらいもんじゃないです、別に」ということについては衆議一決されています。

先生方のお気持ちも、あるいは先生方を罵倒される方々も、それなりに切ない事情があって語り出されているわけですから、お気持ちもわからないではありませんが、そういうことだけで果たしてよろしいのであろうか、という警世の一石を投じるのが本書の趣旨であります。

私の「先生はえらい」論は、「えらい先生とはこれこれこういうものである」というような認知的なものではありません(そんなことを言っても何も始まりません)。
あるいは「いいから黙って先生の言うことを聞きなさい」というような政治的なものでもありません(そんなことを言っても誰も聞いちゃくれません)。

そうではなくて、「先生」というのは定義上「えらい」ものである。あなたが「えらい」と思う人、それが「先生」であるという必勝不敗の同語反復を断固主張するところの書物なのであります。

私が行ったのはいわば「えらい」の構造分析です。
「他者を『えらい』と思うのは、どういう心的状況、いかなる権力的付置のことか」
という分析を試みたのです。
これなら私も理論的に熟知しています。
というのは、私がこの数年集中的に読んできたレヴィナス老師とラカン老師はどちらも「えらい」の専門家だからです。

この方たちは「えらい」というのはどういうことで、それがどのような教育的・分析的効果をもつのかということを、ほとんどそのこと「だけ」を考究され、書き残されているのでした(ということに気づかれているかたはあまりいないようですが、そうなんですよ、これが)。
私も最近まで気づきませんでしたから、偉そうなことは言えませんが。

ともあれ、レヴィナス、ラカン両老師のご高説をすべて「えらいの構造分析」という視点から読み直し、ついに「『先生はえらい』だって、『えらい人』のことを『先生』ていうんだもん」という必殺の同語反復に到達したというのがことの真相であります。

「えらい」の構造分析を通じて、師弟関係の力学的構造が解明されれば、まあ、あとは原理的には「赤子の手をひねる」ようなものです。ビジネスでいうところの「レバレッジ」(梃子)というやつですね。

「われにレバレッジを与えよ、さらば宇宙を動かしてごらんにいれよう」とまではゆきませんが、「えらい」のレバレッジ・モデルの解明を通じて、やがて日本の教育はあらたなフェーズに入ってゆくものと確信しつつ、新刊案内のご挨拶に代えさせて頂きます。

内田樹さんのホームページより 著書一覧はこちら → 著書一覧

これを読むだけで、書評はいらないですね。

ヨガインストラクターはこの本を一読することをオススメします。