今日もクラスへ参加してくださった方々、本当にありがとうございました。
「ENQAN」という時間を、ゆるりと楽しんで頂けましたでしょうか。
僕のクラスでは、動きながら色々とぺちゃくちゃと喋っています。その内容について、今日は少し補足しておきたいと思います。
原理原則とヨガの関係とは
僕のヨガクラスの大きな特徴は、細かいことをそこまで厳密に説明しないことです。
一般的なスタジオのクラスでは、アライメント(身体の各部位の正しい配置)や呼吸のタイミング、目線など、多岐にわたる指導が入るでしょう。
もちろんそれは、怪我を防ぐためにも、ポーズを深めるためにも、とってもとっても大事なことです。
しかし、僕はそのあたりの細かい枝葉末節にはあまりこだわりません。
その理由は様々ありますが、根本にあるのは「原理原則」を重んじているからです。
ここで言うヨガにおける原理原則とは、「生命力を高め、心身脱落(しんじんだつらく:心と体のとらわれから離れること)へと至るための、時代や環境に左右されない普遍的なあり方」と定義できます。
ノウハウは時代や状況で変わりますが、原理原則は決して変わりません。
様々な流派が交わる場の力
僕が主宰する「ENQAN」という動的ヨガの場には、実に様々なバックグラウンドを持つ方がいらっしゃいます。
アシュタンガヨガ、ハタヨガ、シヴァナンダヨガ、アヌサラヨガといった伝統的な流派から、新体操の経験者まで様々です。
だからこそ、それぞれの流派で培ってきた方法論を大事にしてもらいたいと考えています。
もちろん、怪我があってはよくないので、身体を痛めないための基本的な説明は行いますよ。
けれども、「こうしなければならない」という絶対的なルールとして強制することはいたしません。
その人がこれまで歩んできたプロセスの連続性を尊重したいからです。
なぜか僕のクラスには、ヨガの先生がたくさん足を運んでくださいます。本当に有難いお話ですね。
さらに、ジムのトレーナーやウルトラマラソンを走る人など、生命力にあふれた面白い方々が集まってくれるのです。
ヨガの伝統では、こうした共に実践する仲間のことを「KULA(クラ:コミュニティや家族の意味)」と呼びます。
多様な仲間たちと同じ空間で太陽礼拝や倒立(ハンドスタンド)に取り組むことで、互いの波動やオーラが共鳴し合い、クラスに参加すること自体の楽しさや深みが増していくわけです。
こうして場を共有し、共にゆるめること自体が、人間の成長を促す大きな原理原則の一つだと感じています。
古代の聖者と師弟関係の本質
東洋思想の歴史的な背景を少し振り返ってみましょう。
本来、ヨガや瞑想といった実践は、深い山の中や洞窟において、師匠から弟子へと一子相伝のように伝授されていたはずです。
ヒマラヤの奥地で修行に励む行者たちを想像してみてください。
その神聖な鍛錬の場で、師匠が弟子に対して「もっと踵を引き上げて」「膝をしっかり伸ばして」といった、現代のフィットネスジムのような細かいアライメントの指摘をしていたでしょうか。
おそらく、そんなことは言っていなかったと思うのです。(ちなみに、僕は現代のヨガクラスなので一応言及はしていますが)
彼らが重んじていたのは、もっと本質的なことでした。
いかにして潜在意識の奥底にアクセスするか。いかにして梵我一如(ぼんがいちにょ:宇宙の根本原理と真の自己が同一であるというインド哲学の究極の境地)を直観するか。
そうした意識の向け方や、内観を通じた自己探求に重きが置かれていたはずです。
もしかすると、言葉による具体的な指導そのものが存在しなかった可能性すらあります。
学校教育における「先生と生徒」の関係は、カリキュラムに沿って知識をインストールするシステムです。
しかし、伝統的な「師匠と弟子」の関係はそれとは根本的に異なります。
弟子は師匠のあり方そのものを模倣し、そこから生きる力と知恵を直観的に盗み取るのです。
そういった意味では、現代のヨガインストラクターにも、単なるノウハウの提供者を超えた、本質的な「師」としての役割がどこかで求められているような気がしてなりません。
関連記事:ヨガが現代において普及した経緯(西洋編):東洋の叡智、西洋社会への浸透
枝葉末節を手放し原理原則に立ち返る
現代社会を見渡すと、私たちはどうも情報やモノを抱え込みすぎているようです。
ヨガの練習でさえ、「有名なウェアを着て、難しいポーズを完成させる自分」という記号を消費するだけの活動に陥ってしまう危険性があります。
これは現代の消費問題や社会問題の根底にある「不足感」から来るものでしょう。
だからこそ、仏教やヨガの八支則にある「足るを知る(サントーシャ)」の精神やミニマリズムの思想を取り入れ、余計なものを減らすことを提案しています。
安易なノウハウに飛びつくのではなく、振り子の法則のように揺れ動く感情の重要性を下げること。セルフトランサーフィン(現実を無理にコントロールしようとせず、波に乗るように生きる概念)のように、執着を手放すことが大切です。
一見すると僕がクラスでノウハウっぽいことを伝えている時も、根底では常に原理原則について語っているつもりです。
原理原則をマスターすることは、僕自身にとってもまだまだ果てしない道のりですが、この原則はあらゆる分野に応用できるという確信があります。
ビジネスの世界でも、近江商人の「三方良し(売り手良し、買い手良し、世間良し)」という考え方は、時を超えて商いを成功させる原理原則として機能しています。
枝葉のテクニックを追うのをやめ、身体の声を聴き、原理原則を拠り所にすることで、私たちは人生のどのような場面でも間違いない方向へ進んでいくことができるのです。
遊戯三昧という生きる力と贈与
ヨガを通じて「生きる力」を高めること。これが僕の大きなテーマです。
ヨガを日々の生活に活かし、身体を軽くしていくことは素晴らしいことです。
しかし、ヨガの練習にのめり込むあまり、社会生活が疎かになったり、先生やメソッドそのものに依存してしまったりしては、本末転倒と言わざるを得ません。
都会の喧騒の中で、私たちはどうしても悩んだり葛藤したりするものです。
そんな時こそ、日本一簡単な瞑想のように、ただ静かに座る時間を持つことで、集合的無意識の大掃除を行うことができます。
ヨガでの継続的なプロセスが、そのまま現実世界での抜苦与楽(ばっくよらく:苦しみを抜き、楽しみを与えるという仏教の教え)に直結するよう、原理原則論が欠かせないわけです。
そして最後にもう一つ。
遊ぶということも、非常に大切な原理原則に他なりません。
禅の言葉に「遊戯三昧(ゆげざんまい)」というものがあります。
関連記事:人生は命をかけての遊びであるロールプレイングゲーム
これは、何事にもとらわれず、子どものように無心になって今この瞬間の活動を楽しむ境地を指します。
この充足の世界に至り、軽い自己になれれば、これほど嬉しいことはないでしょう。
深刻になりすぎず、どこか「愉快にいこう」という弛緩した軽やかさを持つこと。
クラスを愉快に、そして身軽な状態で受けることは、ご自身の浄化になるだけでなく、その場を共有する周りの人々への素晴らしい「贈与」にもなります。
また一緒に、遊びましょう。
ではまた。




