都会の喧騒の中で、私たちは日々さまざまな情報や価値観に晒されながら生きています。
そんな現代において、「好きなことをして生きよう」という言葉を耳にする機会が増えました。
しかし、「好き」という感情は、実はたいへん曖昧で捉えどころのないものです。
そもそも、現代社会における私たちの「好き」は、本当に私たち自身の内側から湧き上がってきたものなのでしょうか。
私たちはしばしば、メディアや広告が作り出した「記号の消費」に巻き込まれています。
他人が羨むようなライフスタイルや、ステータスを示すためのブランド品など、誰かが設定した価値基準を自分の「好き」だと錯覚してしまうことが多々あるわけです。
しかし、「好きなことをする」というのは、そうした他者の欲望をなぞることではありません。
自分自身の生命力が素直に反応し、心身を軽くするような営みを、日々の生活の中にゆるりと取り入れていくことなのです。
対象そのものが好きな場合もあれば、その生活スタイルやあり方が好きだということもあるでしょう。
もちろん、いきなり大きな夢を叶えることは難しいかもしれません。
それでも、いまここから選び取ることは十分に可能です。
たとえば、作家としてすぐに生計を立てることはできなくても、ブログで文章を綴り始めたり、自らのコンセプトを練ったりすることは、今日からでも始められます。
世間には「好きなことを仕事にしてはいけない」という意見もあります。
しかし、そう語る人たちもまた、深い部分では自分の「好き」を選択しているのです。
安定した生活を好む人、ほどほどであることを好む人、あえて困難にチャレンジすることを好む人。
つまり、「好きではないことを仕事にする」という選択でさえ、ある種の安定や堅実さを「好き」で選んでいるというパラドックスが存在します。
結局のところ、人はどこかで自分の好みに合うあり方を選び取っているのだという気がします。
それならば、自らの潜在意識に耳を澄まし、本当に納得できることに時間とエネルギーを注いだ方が、人生ははるかに豊かになるのではないでしょうか。
気持ちが入るという直観と生命力
やりたいことが見つからないと悩む方もいらっしゃるかもしれません。
そういうときは、ほんの些細な「好き」で構わないのです。
大切なのは、その行為に向き合ったときに「気持ちが入るかどうか」という一点に尽きます。
「気持ちが入る」とは、言い換えれば、そこにあなたの生命力が注ぎ込まれ、波動やオーラといった目に見えないエネルギーが満ちていく状態を指します。
東洋思想の歴史的な背景を紐解けば、古代インドのヨガ哲学には「梵我一如」という概念があります。
宇宙の根本原理であるブラフマンと、個人の本質であるアートマンが本質的に同一であるという思想です。
私たちが純粋な気持ちで何かに没頭し、心身が調和しているとき、この大いなる流れと接続しているような感覚を得ることができます。
気持ちが入ることをしていると、行動の質も、考え方の質も自然と高まります。
気が入ることで、私たち自身の身体や精神もまた、良質な方向へと変化していくのです。
太陽礼拝や倒立(ハンドスタンド)の練習を継続するプロセスと同じで、気持ちを込めて日々取り組むことで、直観は研ぎ澄まされ、生きる力と知恵が育まれていきます。
あなたには今、気持ちが入る時間がどれくらいあるでしょうか。
まぁいいかという中庸の視点と心身脱落
とはいえ、好きなことや気持ちが入ることをしていても、悩みや葛藤は必ずやってきます。
人生というプロセスには、常に波があるからです。
どんなに満たされた日々を送っていても、思いもよらないブラックスワン的な出来事や、大きな変化は唐突に訪れます。
それはもう、そういうものだとして受け入れるしかありません。
仏教の根本的な教えに「抜苦与楽」という言葉があります。
苦しみを抜き、楽しみを与えるという意味ですが、これは単に苦境から逃げることではありません。
苦しみの本質を見つめ、そこへの執着を手放すことで、結果として充足の世界へと至るという実践的な教えです。
大変な出来事に直面したとき、深刻になりすぎず、「まぁいいか」と中庸的な視点で受け流すことが非常に重要になります。
これは現代ロシアの自己探求モデルであるセルフトランサーフィンで言われる「重要性を下げる」ことや、「振り子の法則」から抜け出すことにも通じます。
過度な重要性を付与すると、エネルギーのバランスが崩れ、かえって物事はうまくいかなくなるのです。
禅の言葉に、道元禅師が説いた「心身脱落」があります。
心と身体の執着やとらわれから離れ、エゴを手放す境地のことです。
心身脱落、脱落心身などともいいます。
「まぁいいか」と呟くとき、私たちは無意識のうちにこの心身脱落に通じる「弛緩」を体験しています。
緊張を解き、心身をゆるめることで、過剰なプレッシャーを減らし、身軽になることができるのです。
流してから、本気で取り組む
一旦「まぁいいか」と流して、身体を軽くする。
その上で、再び本気で取り組むというリズムが大切です。
流してみて、「なんだ、本当にやる必要がなかったな」と気づくこともあります。
その場合は、無駄なエネルギーを消費せずに済んだということです。
不要なものを削ぎ落とし、手放すことで、本当に大切なものだけが残ります。
一方で、流した後にもやはり立ち戻るべき課題であれば、気持ちがフラットな中庸の状態になっているため、以前よりもずっと質の高いアプローチができるはずです。
「まぁいいか」と思えるだけで、事態の深刻さは一気に減少し、軽い人として物事に向き合うことができます。
私自身も、日々の生活や動的ヨガの指導の中で、この「流して、また本気でやる」というサイクルを意識して実践しております。
純粋な気持ちという原点に立ち返る
最後に、仕事や夢との向き合い方について考えてみましょう。
自ら「やりたいです」と手を挙げた仕事でも、上司から「いつまでにできますか?」と期限を切られた瞬間に、心がモヤモヤし始めることがあります。
純粋な「やりたい」という気持ちが、他者の思惑や社会的な要請によって「やらなければならない」という義務にすり替わってしまうからです。
これは誰にでも起こり得る、大変もどかしい現象です。
大きな目標や夢を掲げることも同様です。
目標が大きすぎると、それに圧倒されてしまい、行動を起こすことに尻込みしてしまいます。
そんなときこそ、内観を行い、日本一簡単な瞑想のようにただ静かに座る時間を持ち、自分自身の潜在意識にアクセスしてみてください。
ヨガの八支則においても、日常の規律や足るを知ること(サントーシャ)が説かれています。
「できるかできないか」や「計画通りに進むかどうか」という外部の評価軸から離れ、ただ「純粋にそれをやりたい」と願った初期衝動にフォーカスし直すのです。
気負いすぎる自分に気づいたら、そこでもまた「まぁいいか」と流し、深呼吸をしてから再び歩み始めればよいと思います。
集合的無意識の大掃除をするように、社会から押し付けられた価値観を浄化し、純粋な気持ちにアクセスできたとき、私たちはこれまでとは全く異なる視座を手に入れます。
その覚醒したかのような軽やかな視点から行動を起こし続けることで、結果的に夢や目標は自然な形で実現していくのではないでしょうか。
皆さまが、ご自身の純粋な気持ちを大切にし、軽い自己として心地よい日々を過ごされることを願っております。
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