「与えるものが与えられるもの」という言葉がある通り、この世界はいかにパスを回すかで、その人にパスが回ってくるかが決まります。
ここで言っているパスというのは、自分の持っているリソースで他者に与えられるモノ全てのことです。
僕の活動である、ヨガや”BORN TO YOG”、瞑想、YOGGY&BOZUも一つのパス回しです。
パスを出していますでしょうか。
パスを出さない人には、他者からのパスも回ってこなくなってしまいます。
もくじ.
サッカーでパスを回さない人がいたら、その人にはボールそのものが回らなくなる
サッカーやフットサルをやっていて一番つまらないのは、一度ボールを持つと相手選手に取られるまでドリブルし続ける人を見ているときです。
めっちゃくちゃに上手いとしても、限界があります。11人を相手に1人でプレーし続けれるわけがありません。
ワンマンの個人プレーで面白いものはありますが、それはチーム全体で戦っているスパークが起きたときの個人技です。
個人の圧倒的な才能とは別に、パスは必ず回っているものです。
パスを出さずに自分一人で突っ走っていると、そのうち、その人にはパスが回らなくなるでしょう。
普段の社会生活においても同じことが言えるかと思います。
他者から与えられたものを、他者へとパスを回すことなく、自分だけで抱えて消費し続ける行為をしている人にパスは来なくなります。
「他者から与えられたもの」が自分にとって価値があるかないか、相手にとって価値があるかないかは関係ありません。
いかにパスを回すか、それを私たちは社会から求められているのです。
人の活動はパス回し
人の活動はパス回しにあります。
私たちはあらゆるものを先人から与えられてきました。
僕が生まれた時には、電気・ガス・水道は完備されており、学校もあり、道路も車も走っていました。
いきなり、なんの予告もなく人生ゲームがスタートしていました。
これらは全て先人からのパスなのです。
すでに生まれた時から、無条件のパスが回っているのです。
ある意味、既に後手に回っているということです。
社会のルールも世界の成り立ちも、宇宙の仕組みも、自然の営みも何も知らないまま、パスが回ってきているのです。
私たちは、なんにもないところから学び成長できる機会が与えられていたのです。
次の人へとパスをつなぐポイントは、なんでもいいと開き直ること
自分の所有している財産(お金だけでなく、知識や人間関係など無形資産も含めて)を握りしめないことです。
とかく、何を与えるといいのか自分で判断をしてしまうものです。
もっと素晴らしいものを提供しよう、もっと勉強してから他者へと回そう、と考えがちですが、そうではなく今最善を尽くして与えていくことがパス回しのポイントになります。
より良く回す工夫も大事ですが、「回っている」ということが最も大事なことなのです。
まずは回すことです。
お金の量よりも、お金が回っていることの方が社会は元気です。
血液循環も血液の量も大事ですが、回っていないことには活動できません。
だから、握り締めない。
ボールを持ちすぎない。
気負うことなく、パス回しを楽しんでいくといいでしょう。
今持っているものから始めることができるのです。
ものには賞味期限がある
パス回しって贈り物でもあると思います。
贈与経済なんて言い方をする時もありますが、贈与こそ通貨の本質であります。
ということは、通貨は通過であり、通貨こそパス回ししないと循環が途絶えてしまうのです。
贈り物って実は賞味期限があります。
賞味期限はそれぞれかと思いますが、自分ひとりで握りしめていると期限が切れてしまい、そのあとパスを回しても相手にしてもらえません。
パス回しをすることが贈与であり、他者への贈り物であり、社会を作り上げていく後世の人たちへのプレゼントになるのです。
物理的なものだけでなく、応援することもパスだと思います。
友人が初めて出店するとか、舞台出場が決まったとか、誕生日を迎えたなど、人とことメールを送ることや励ましの電話をすること、応援で駆けつける、顔を出すなどこれら全てパス回しなのです。
僕の活動のヨガや瞑想もパス回し
僕はヨガという知恵、叡智に触れることができました。
多くの仲間から学びを与えてもらい、昔の方々からも沢山の叡智を貰っています。
まだ道半ばであり、勉強したいことが山ほどあります。
それでもクラスを開催して、みなさんに出来る限りのことを提供しようと思っています。
これもパス回しの一環なのです。
未熟だとか、まだまだ僕は全然ですからとか言ってパスを回さないでいると、そもそも僕にパスが来なくなってしまいます。
それはつまらないし、そのような生活スタイルを僕は望んでいません。
パス回しは”いかにパスを回すか”です。
ワンタッチで軽やかに回すのもいい、しっかりと受け取って丁寧に回すのもいい、自分の得意なパスがあるでしょう。
どれでもいいのです、上手いプレーもいいですが、「パスを回す」ということだけは止めてはいけません。
私も手の届く範囲からパスを回していこうと思っています。
終わりに:パスはなんでもいい
自分の出来る範囲でパスはいいと思います。
無理して出すものではありませんので、自分か心地よく楽しく続けられるパスを考えるとよろしいかと思います。
人は無意識的にもパスを出しております。
なぜなら、人から勝手にパスをもらってしまうからです。
なぜか先にパスをもらってしまう。だからパスの義務を感じる。
そのようにできているようです。
大人はパスを出しますが、子供はパスをもらうことしか考えられません。
大人になれるように今日もせっせとパスを出していこうと思います。
いつもありがとうございます。
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