人から大切にされたいですよね。
当然かと思います。(他人に対しては大切にしないのに、他人からは大切されたいと思っている人も多く見受けられますが)
当たり前ですが、普通の人は多くの人から大切にされたいと思っています。
と書きましたが、時々ですが大切にされていない自分が「本来の自分」という考え方の人もいらっしゃいまして、そういった方は逆に、自分が大切にされていないことを証明するために、怒られることや怒鳴られること、嫌われることや呆れられることを無意識的に、そして時には意識的に行動したります。
どっちも内なる自己がそれを選択しているのです。
例えば、私で言えばブログ記事を特定の人に向けて書いていることがあります。
面白いことに、その記事に限ってその人が読んでいなかったりするのです。
人間の勘ってすごいですよね。
その記事を読むことによって、自分にとって都合の悪いことが書いてあると感じるのでしょう。
だからなんとなく手が伸びないのです。
面白いものです。
そうやって人はわかりたいのに、わからないようにしておこうと思うようです。
もくじ.
その人のためにブログ記事を書いてもその人は読んでいない
はじめに書いた通り、ブログ記事をある人に向けて書いているのにその人は読んでいないことがあります。
私は(自分のことを棚に上げておいて)人に対してこういう風にするといいよとか、こういう風に考えると楽になるよということを書くことがあります。
自分なりにも、そして書籍や実際にそういうことをされている人を見ていても、まずは試していいのではないかという考え方を書いたりしているのですが、それを何故かその人は読んでいないのです。
その人というのは、テーマとしている内容を読んでほしい特定の誰かです。
他の記事は読んでいるのに、その記事だけうまいこと読んでいない。
面白いですよ、本当に。
無意識に、自分が気づいてしまったら都合の悪いことが書いているのを知っているのではないかと感じます。
そのぐらいに人間ってすごいのだと感じます。
読んでしまうと、自分が無意識に選び取っている観念に気づいてしまうのです。そしてそれはまだ気づきたくない。
だから本人に悪気もなく読んでいなかったり、飛ばしていたりします。
もちろん、ブログ記事なんてどうってことない記事ばかりです。
読む必要もない記事も多くあることでしょう。
ですが、暇つぶしか何かで気になって読んでいる記事に、その人に向けて書かれてる記事が含まれていない
意図的にではなく、単純に読んでいない。無意識が選べないようにできている。
そうやって、人は自分を守っているのかもしれません。
ですが、自分にとって都合の悪い記事が、そのまま悪い記事というわけではありません。
耳が痛い話(記事だから目が痛いなのか?)であって、都合が悪い記事ではなく、むしろ必要な記事というのがあります。
そういう記事を選択しないというのはもったいなくもあり、無意識に行われているので意識にのぼらせるのが難しくもあります。
ヨガクラスでもその人に向けて話しているのに聞いていないこともある
ヨガのクラスでもその人に向けて話していても聞いてないことがあります。
その人が悪いわけではないのです。
先生の話を無視するような生徒はいません。(聞いているフリをする生徒はいると思いますが)
先生の話を嫌がる人がいても、理解できない人がいても(先生も悪いですが)、聞いているフリの人がいてもいいのです。
人それぞれですから、いいのです。(もちろん勿体無いことは多分にありますよ)
いいのですが、ここで大事なことは無意識に聞きたくない人は、聞こえていないということが起こっています。
聞きたくないから、無意識的に聞こえないことにしているのです。
自分の隠している真実を知ってしまうかもしれませんからね。
うっかりと聞いてしまって「それって私が今まで常識だと思って守ってきたことなのに、それによって私はこんな恥ずかしいことを隠していたのか」なんて思いたくありません。
だから確認しても「そんな話ししてましたっけ?私は聞いていません。言ってないと思います。」そのようにして展開されるわけです。
何が起こっているのでしょうかね。
人の頭は複雑だと思いますが、単純に「この話は聞かなかったことにしよう戦略」を無意識はよくとるようです。
ですので、何を聞こえないことにしたのか、自分に問う必要があるわけです。
だってそこに自分が逃げている課題が存在するからです。
本音としては聞いてほしいし、反応を示してほしいが根が深いことが多いので、自分で質問をして逃げているブロックを外す
私の立場からすれば、聞いてほしいというのが本音ですが、なかなか聞けないものですよね。
やはり、その事実や都合の悪いことをスルーしておくことで沢山のメリットを享受しているのですから。
やりたいのにやれていないこと、やりたくないのにやっていること、これらを行動することでメリットがあるから続けられるのです。
本当にデメリットだけなら続けることはできません。
嫌になってしまい、違う行動をとります。
自傷行為や特別なことをしてしまうのは、専門家に聞いた方がよろしいでしょうが、一般的に範囲では「お菓子を食べ過ぎる」「怪我をしまくる程に運動する」「ちょっとしたことでイライラする」などなどは、そこに沢山のメリットや自分にとって都合の良いことがあるから続けられるのです。
そこに気づくことが大切です。
「それをすることで、私は何を得ているのか?」このように問うことです。
それはプラスのことを聞きます。
やりたくないのにやってしまっていることにも、何かしら良い側面があるはずです。
物事は裏と表で出来ているので、どんな物事にも良い側面と悪い側面があるようにできています。
どんな行動の裏にも良い側面が隠れています。
その良い側面を無意識的に得たいがために、自分を痛めつけるような行動などもしてしまっています。
そこを掘ってみてください。
色んな気づきがあります。
「全部、自分から始めっているのか」ということがわかってきます。
終わりに:人ができることを速くやるのではなく、自分のできることをやる
最近の課題は、自分のできることをやることです。
自分の能力を活かすということです。
がむしゃらにやる時期も大切ですが、エッセンシャルにちゃんとフォーカスした分野に集中する時期も必要です。
なんでもかんでもやっても、ものにはなりません。
野球選手がサッカー選手をやっていないのと同様です。(いたらごめんなさい)
人ができることを速くできるのは素晴らしいことです。
ですが、自分しかできないことを仕事にできるのはもっと素晴らしく思います。
ですので、自分にしかできないことに注力していこうと思っています。
経営の神様のピータードラッカーさんも「選択と集中」と言っていることであります。
自分の才能が発揮されることを選択して、集中してリソースを投下していこうと思います。
よろしくお願いします。