私たちは感情の生き物です。
心理的な浮き沈みが日常的にあるかと思います。
もしかすると、かなりの乱高下の状態にある人もいることでしょう。
でも、その背後にある本来の自分(ヨガでは真我と呼びます)は何者にも邪魔されることなく、完全な存在としてあるのです。
私たちの本質は汚れない
真我は、何者にも汚されることのないものです。
大いなるもの、愛などと呼ぶ人もいますが、これは誰一人例外なく無条件に与えられた、私たちの本質です。
この本質に触れる体験というのが、三昧(ヨガではサマーディ)と言います。
梵我一如ということでして、自我と真我が一体となった状態です。
善良なる本質が私たちそのものです。
体は全体のバランスを保って機能し続けている
私たちの体は全体のバランスを保てるように機能をし続けており、地球という全体においても、一つの細胞としてバランスが保てるように役割を担っています。
そのような視野を持つことで、起きていることが起きている、という当たり前の事実に気付いていきます。
神は細部に宿ると言います。
カール・ユングが提唱した共時性(シンクロニシティ)が起こっていることを知り、それさえも起こるべくして起こっていることに気付いていくのです。
因りて起こることを肌で感じ、全体のバランスを保つ役割が個々にあることがわかっていきます。
自覚することで進む
「私は分離している」と自我が理解している限り、真我を感じることはできません。
自我の消滅が必要なのです。
自我を消滅する前に、自我に気付くことができないといけません。
日常的に出来ることがあります。
それが瞑想と自覚です。
このサイトでも瞑想は散々勧めてきましたが、自覚するのもとてもお勧めの方法です。
美しい音楽や芸術、アート作品、ダンスなどに触れている瞬間も自分の中にある静けさに触れています。
映画も同じですね。素晴らしい映画に見入っているときにも、同じように自分の奥へと触れていることでしょう。
このような体験を意識的になることも自覚することにつながります。
世界が変わるのは、世界を変えようとするの行為ではなく、自分を変えること
禅でもそうかもしれませんが、自我の消滅、自分の本質へと目覚めることが大切なのです。
そこには恐れがありません。
自分を脅かす存在がいるから恐怖が生まれ、自分を守ろうとします。
自我の消滅(実際は自我などないと気付くこと)が起こることにより、脅威が消えて自分を守る必要もなくなり、利己的な自分が消滅していくのです。
他者を批判する必要がなくなります。といいますか、批判する他者などいないということがわかるのです。
まずは、日常生活で自覚してみましょう。
瞑想が好きなら瞑想の時間をもってみましょう。
自分の中にある静寂へと触れる時間を増やすことで自分が変わっていくことでしょう。