阿部敏郎さん・大和田菜穂さんのコラボ講演会-ノンデュアリティについて

スピリチュアル

KIYOSHI

【お知らせ】
・9/25(火)17:00〜18:30 BTY ゲスト講師でししょう先生が来ます。
・9/16,30(日)13:30〜15:00 日本一簡単な瞑想会SUWARU
・9/19(水)18:30〜21:30 潜在意識の可視化インサイトマップ講座
・9/30(日)15:30〜18:30 潜在意識の可視化インサイトマップ講座

2015年7月26日@KFCホールでの「阿部敏郎さん・大和田菜穂さんのコラボ講演会」に行ってきました。

友人に誘われての講演会です。更新しようと思っていたら1年近くが経ってしまっています。実はそんな感じで溜まっている記事が500本くらいあるのです。

話を戻しまして。

最近は、あまり積極的に講演会には行かなくなっていたのですが、こちらの講演会は行ってみようと思い立ったので参加してきました。

テーマはノンデュアリティです。

ノンデュアリティです。2つではない、ということです。

 

ノンデュアリティを知っていますか?

知ってますか?ノンデュアリティという言葉を。

インド哲学というかヨガでは、アドヴァイタ(二つでない)なんて言ったりしますね。

ノンデュアリティは日本語だと非二元と訳されます。

そのノンデュアリティについてのお話を聞きに行ったのです。

ノンデュアリティというのは、非二元であるわけですが、それは時間もなく、人もいなくて、ただ「これがある」だけです。

言葉で表せないことを話すわけですから、結構ぽかーんとされている人もいました。元も子もない話しばっかりだし。

「あなたはいない。ストーリーという幻想に生きているだけ」「ここには誰もいない。これがあるだけ。起こっているだけ」「それはある」なんて話しばっかりです。

それがノンデュアリティですね。言葉にした時点で「デュアル」な世界になってしまうので、言葉にして指し示すことは難しいのです。ややこしいですかね。

でも、とても楽しかったですよ。

 

実は何もなかった

P1020029実は何もない。私というのは幻想である。個というものがないのです。これを聞いて、どう思いますか?

ノンデュアリティについて話すということが矛盾を孕んでいます。指し示すことはできても説明することは出来ないからです。そこに体験があるだけ、と言ってもその体験を差し出すことは出来ませんよね。

あなたが生きているということそのものが無いのです。

だから、何かを探求するということをしている「私」がいないのです。いなかったのです。

「それ」だけがあるとも言えます。

「ある」というこだけを仰る方もいますね。

意味不明ですかね?

 

ワンネスはワンネスだけど

ワンネスという言葉を聞いたことはありますか。

このワンネスも同じことを指し示しています。

「全てはひとつだ」という表現にもなりますが、ワンネスというのは全員が一緒であると同時に、すべてがひとつですね。

「わたしがあなた、あなたがわたし」なのですが、それはこの二元世界の表現にするとそうなるだけで、説明を加えることなく「これだけ!」というのがワンネスです。

「今起こっていること、それだけ」がそのままワンネスです。

実際問題、私ってどこにあると思いますか?脳、身体、魂、、色々と言われていますがどこにあるのでしょうか。

「私の○○」と表現する限り、○○に入る言葉は私ではありませんね。

私の脳、という言い方をするならば、脳は私ではないですよね。

私は偏在するものなのです。

 

個というものがあるのではなく、ただ全体があり起こることが起こっているだけ

どんどん意味不明になっているかもしれませんが、そういうことです。

ただ起こっているだけです。すべては完璧にただ起こっているだけです。

これを釈迦はタタータと表現しました。起こることが起こるということです。

時間も無いのです。時間が無いって知ってましたか?ないのですよ。

時間は幻想という言い方もできますが、時間は脳が作り出しているだけですね。実際はありません。

瞑想でもそれを見出すことが必要になります。

瞑想は無為になること

2015.07.06

 

実は何もなかった。みんな一つのエネルギーだった

すべては完璧にただ起こっているだけです。

すべては完璧で起こっています。すべては完璧であり、なんも特別ではない。完璧に起こっていることが起こっているだけです。

完璧に起こっているのです。それを解釈している私という幻想がストーリーを作り出すだけで、事実は起こることが起こっている。完璧に。

どうですか?

みんな同じ一つのエネルギーで現れています。個は存在しません。だから探求というのはないのです。

探求するという主語となる人がそもそもないのですから。

みんな全てを得ています。というかそのものです。何一つ足りないものがないのです。

何もかも最初から得ています。すべてであるのです。

いまここで、ただ在る。それだけです。

 

終わりに:そもそも私はいなかった

「私」が認識するわけではない。そもそも「私」というのがいないということです。

「私」がいないというのは、コペルニクス的大変換ですよね。

ひとつ疑問に思うのは、では「私」がいないということであるならば、これからどうしたらいいのか。やっぱり「私」いるんですけど、と言う声が聞こえてきそうです。

最後に禅の言葉を紹介して終わります。

「禅の前は、山は山であり、川は川であり、禅を知り、山は山ではなくなり、川は川ではなくなる。悟った後は山は山であり、川は川になる」