街を歩いていると、お洒落なヨガウェアを身につけた人をよく見かけるようになりました。街のいたるところにヨガスタジオがあり、「ヨガブームが再来しているのではないか」という声を耳にすることもあります。
私の運営するEngawaYogaでも、そのような質問を受ける機会が増えてきました。しかし、私の率直な答えは、タイトルにある通り「来てないね」という一言に尽きます。
これは、冷笑的な意味で申し上げているわけではありません。なぜそう言えるのか、その理由を東洋思想の歴史やミニマリズムの視点から深く掘り下げてみましょう。
日本における「瑜伽」の歴史的背景とブームの断絶
日本の歴史を振り返ると、ヨガは全く新しい流行などではないことが分かります。今から千二百年以上前、平安時代に真言宗の開祖である空海(弘法大師)が唐から持ち帰った密教には、すでにヨガの瞑想体系が含まれていました。
サンスクリット語の「ヨーガ」は、当時の漢訳仏教において「瑜伽(ゆが)」と訳されています。瑜伽とは、心と対象が合一すること、すなわち瞑想によって自己を超えた大いなる存在と一体になる境地のことです。
つまり、私たちの精神文化の根底には、古くから「心身一如(しんしんいちにょ:心と体は一つである)」というヨガの精神性が静かに息づいていたのです。
明治から大正期には、中村天風がヒマラヤでの修行を経て「心身統一法」を創始し、政財界の重鎮たちに心と体の整え方を説きました。その後、沖正弘によって日本の禅や東洋医学を融合した独自の「沖ヨガ」が生まれ、生活の修養としてのヨガが定着していったのです。
しかし、現代の「ヨガブーム」と呼ばれるものは、これらの骨太な歴史とは少し異なる文脈で語られがちと言えます。アメリカ経由で逆輸入されたフィットネスとしてのヨガが、スタイリッシュなファッションや美容法として消費されているのが現状です。
ブームという名の商業主義とエゴの揺らぎ
なぜ、ブームは来ていないと言い切れるのでしょうか。それは、世間で騒がれる「ブーム」の多くが、本質的な自己探求ではなく、商業主義による消費活動に過ぎないからと言えます。
『ヨーガ・スートラ』を編纂した古代インドの聖者パタンジャリは、ヨガを「チッタ・ヴリッティ・ニローダハ(心の作用を静止すること)」と定義しました。チッタとは心そのものを指し、ヴリッティとは外的な刺激によって引き起こされる心の揺らぎを指す言葉です。
しかし、世の中のブームは、むしろ人々の心の揺らぎを活発にさせ、所有欲を刺激する装置として機能しがちと言わざるを得ません。「新しいウェアを買わなければ」「綺麗でお洒落なスタジオに通わなければ」という焦燥感は、ヨガが本来目指す静寂とは対極に位置するものです。
これらは、他者と自分を比較して優越感を得ようとする「アスミター(自我意識・エゴ)」を、皮肉にも強化してしまう危険性をはらんでいます。
古代インドのヨガ指導者たちは、このような外側の誘惑から離れ、自己の内面へと深く潜ることを教えました。ブームが来ているように見えるのは、ヨガという聖なる智恵が、ルッキズム(外見至上主義)や資本主義と結びついて一時的にバズっている状態に過ぎないのです。
したがって、真の意味でのヨガの精神性が社会に爆発的に広がっているわけではありません。むしろ、本当のヨギ(ヨガの実践者)は、ブームの喧騒から静かに距離を置き、自室のマットの上で黙々と呼吸を整えていることでしょう。
サントーシャが教える「引き算」の生き方
ここで、ミニマリズムの思想とヨガの親和性について考えてみましょう。ヨガの日常生活における規律(ニヤマ)の中には、「サントーシャ(足るを知る・知足)」という大切な教えが存在します。
サントーシャとは、今自分に与えられている環境や、自分の内側にある豊かさに満足し、それ以上の不必要な所有を望まない心のあり方に他なりません。
現代の消費社会は、足りないものを外部から埋めるための「足し算」を絶えず私たちに促してくるのが特徴です。「この流行の食事を摂りなさい」「最新のトレーニングを受けなさい」といったメッセージは、その最たる例と言わざるを得ません。
しかし、本当のヨガの実践とは、そうした外部の誘惑を削ぎ落としていく「引き算」のプロセスなのです。余計な情報や持ち物を手放し、自分の本質(プルシャ)へと回帰していくことこそが、ミニマリズムとヨガの共通のゴールと言えるでしょう。
「沈黙」がもたらす内省と、真のサットサンガ
私たちが能動的な意志を持って静寂を選ぶとき、心の中には大きなスペースが生まれます。東洋の修行法には「ムーナ(静黙・沈黙)」という、一切の発信や受信を止めて内省に徹するアプローチが存在するのをご存知でしょうか。
SNSに溢れる華やかな「ヨガライフ」をスクロールする手を止め、自分自身の呼吸に静かに耳を傾けること。この静かなひとときの中にこそ、ヨガの本質が宿っています。
仏教における「自灯明(じとうみょう)」、すなわち自分自身を灯火とし、他人の評価に頼らずに生きるという教えも、これと全く同じ方向を指し示しているのです。
私たちは時に、同じ志を持つ仲間と集い、真理を語り合う「サットサンガ(真理の集い)」を求めることもあるでしょう。しかし、現代の商業化されたスタジオは、時にエゴを競い合わせる場に変貌してしまっているように観じてなりません。
誰が一番難しいポーズをとれるか、誰が一番お洒落な生活をしているかという競争は、サットサンガとは程遠いものです。ブームが来ていないからこそ、私たちは純粋に「自分自身の存在」と向き合う、静かで力強い実践を取り戻すことができるのです。
都会で覚醒し、集合的無意識を大掃除する
EngawaYogaが大切にしているのは、この慌ただしい都会の真ん中で静かに「覚醒」することです。周囲の騒音やブームに巻き込まれることなく、自らの内側に強固な静寂の中心点を作り出すこと。
そのために私たちが考案したのが、身体をユルユルに解きほぐし、ただそこに在るだけの「SIQAN(シカン)」というシンプルな瞑想です。SIQANの時間は、何も足さない、何も飾らない、究極のミニマリズムの実践に他なりません。
自分のエゴや欲望を否定するのではなく、ただ「今、ここにその心の動きがある」と客観的に見守る姿勢を養います。この一人ひとりの静かな実践は、個人のリラックスを超えて、社会全体の重い空気を軽くしていく「集合的無意識の大掃除」にも繋がっていくのです。
世間の流行り廃りに右往左往することなく、ただ目の前のマットの上に腰を下ろすこと。ブームという不確かな波に乗るのをやめたとき、私たちは何千年もの間受け継がれてきた、真の東洋の智恵の深みへと自然にアクセスすることができます。
おわりに:時代に左右されない、静かな旅路
「ヨガブームが来ていない」という事実は、ヨガを愛する私たちにとって、むしろ喜ばしいことではないでしょうか。なぜなら、ブームという一過性の波が去った後にこそ、純粋な好奇心と真摯な意志を持った実践者だけが残るはずだからです。
二〇二二年六月現在、世界は急激な変化のただ中にあり、多くの人々が不確実な外側の情報に翻弄される日々を送っています。だからこそ、外側の記号を消費するのをやめて、自らの呼吸と静かに向き合う時間は、何よりも得がたい贅沢となるでしょう。
ブームという幻を追いかけるのはもう終わりにして、今ここにある自分自身をただ優しく抱きしめてあげてください。あなたのその静かな一歩が、何にも染まらない、あなただけの美しいヨガの旅路の始まりとなるのです。




