至福を追い求めてしまうことがあります。
幸せの青い鳥を遠くに求めてしまうのです。
ここではないどこかに幸せがあると思い、いまここにある至福から遠ざかっています。
幸せを感じるのは今だけです。
過去の記憶に幸せを感じても、その幸せを感じているのは今です。
至福は今にあるということです。
今を大切にすることしかできない
目の前にいない人に思いを馳せることはできますが、現実的に大切に出来るのは目の前にいる人です。
目の前にいる人しか大切にすることができません。
時間も同じです。
今しか大切にすることができません。
過去を懐かしんでも、未来にワクワクしても大切にできるのは今この瞬間だけです。
今を大切にすることしかできないのです。
今を生きることしかできない、今しかない、というのが”いまここ”です。
だからと言って、今が良ければどうでもいいと闇雲にやっていいわけではありません。
実は「今が良ければどうでもいい」というのは過去や未来に縛られているので”いまここ”ではありませんね。
ただ”いまここ”を大切にすることしかできないのです。
プレゼントとプレゼント
英語で現在のことをプレゼントと言います。
贈り物のこともプレゼントと言います。
今、この瞬間がプレゼントでありプレゼントです。
至福はこの瞬間にしかありません。
この瞬間に至福を感じられなければ一生至福を感じることはできません。
今しかないのですから、今ここで至福を感じればいいのです。
今にプレゼントが隠されているわけです。
今目の前にあるプレゼントに気づいていますでしょうか。
いまここにあることが至福
いまここにあることが実は至福そのものです。
瞑想ではただ座っているだけでそれを体感します。
瞑想会でも「とっても幸せでした」という感想をもらうことがあります。
まさに、いまここにいたのでしょう。
人は存在だけで至福を感じれるようになっているみたいです。
存在自体が至福といっていいでしょう。
“ある”ことが至福そのものです。
どうでしょうか。
生活をしていると時間に追われたり、仕事や子育て、人間関係や習い事なといろんなことに意識が向いています。
なかなか、いまここの至福を感じられないかもしれません。
だからというわけではありませんが、瞑想(SUWARU)が現代ではとても大事なのかもしれません。
禅ではそれ(いまここ)を体感するために座禅を組みます。
ヨガの瞑想も目的は色々とあるとは思いが、今この瞬間に至福を感じることが大事に私は感じています。
瞑想クラスでも”ただ座る”ことを伝えています。
脚下照顧
禅語です。
意味は、自らの足元にこそ悟りへの道があるということですね。
要するに、いまここにこそヒントがある、すべてがあるということです。
他に向かって禅では悟りを探してもないよ、ということを言っているわけです。
ここでも結局はいまここなのです。
ずっと至福にいること一緒で、脚下照顧なのですね。
チルチルとミチルの青い鳥のようにどこか遠くに青い鳥がいるのではなく、至福はhomeにあるのですね。
既にあるものを探しに行く必要ありません。
気がつけばいいのです。
終わりに:ただ起きている
この世界はただ起こっているだけです。
ヨガ哲学でも、マーヤといってこの世界は幻想だということをいいます。
一瞬一瞬にこの世界が現れています。
それを体感することが至福であり、いまここです。
自分の意思でこの文章を書いているのも、いまここの現実が起こっているだけなのです。
ややこしく感じるかもしれませんが、世界はそういうもののようです。
ただ起きている。
それを観じて味わっていきましょう。