ヨガを推奨しております。
そして、ヨガを伝えるという役割を担う方々にも、深く敬意を持っております。
しかし、最近のヨガシーンを見ていると、インストラクターという存在が「人気商売」や「接客業」の枠組みの中で、少し疲弊してしまっているように感じることがあります。
「生徒さんに好かれなければならない」
「常に笑顔で、ポジティブでなければならない」
「フォロワー数を増やさなければならない」
もし、あなたがそのような重圧を感じているとしたら、一度立ち止まって、ヨガの原点に還ってみませんか。
今日は、少し勇気のいるテーマですが、「ヨガインストラクターは好かれなくてもいい」というお話をしたいと思います。
現代社会の「いいね!」依存症からの脱却
私たちは今、「評価経済」の中に生きています。
SNSの「いいね!」の数や、予約の埋まり具合、口コミの星の数。
すべてが数値化され、他者からの評価が自分の価値であるかのように錯覚させられる社会です。
ヨガインストラクターも例外ではありません。
人気のある先生、映えるウェアを着こなす先生、いつもキラキラしている先生。
それが「良いインストラクター」の定義になりつつあります。
しかし、それは本当でしょうか?
ヨガ(Yoga)の語源は「結合」や「調和」ですが、それは他者の機嫌をとることでも、大衆に迎合することでもありません。
自分自身の内なる神性(アートマン)と、宇宙の真理(ブラフマン)を結びつけることです。
その厳粛なプロセスの案内人であるはずのインストラクターが、他者からの承認を求めて右往左往してしまうのは、本末転倒ではないでしょうか。
他人に好かれるためにヨガをするのではありません。
自分を偽ってまで得た人気は、いずれあなた自身を苦しめる鎖となります。
「嫌われたくない」という恐れ(アビニヴェーシャ)を手放すことこそが、ヨガの実践の第一歩なのです。
グル(指導者)の本来の役割
古代インドの伝統において、グル(指導者)とは「闇(Gu)から光(Ru)へ導く者」を意味します。
彼らは生徒に好かれようとはしませんでした。
むしろ、生徒のエゴ(自我)を粉砕するために、時に厳しく、時に理不尽にさえ見える課題を与えました。
それは、生徒が抱えている執着やプライドという殻を壊すためです。
殻が壊れなければ、その中にある本当の光は出てこないからです。
現代のスタジオで生徒を怒鳴りつけろと言っているのではありません。
しかし、「心地よいサービス」を提供することだけが、指導者の役割ではないはずです。
生徒が自分の弱さと向き合い、限界を突破し、内面的な変容を遂げるためには、時には「好かれないこと」を恐れずに、真実を伝える強さが必要です。
「そのポーズは危険です」とはっきり伝えること。
「今日は少し自分に甘えていますね」と鏡を見せること。
それは一時的に生徒を不快にさせるかもしれませんが、長い目で見れば、その人の成長にとってかけがえのないギフトになります。
真の慈悲(カルナ)とは、甘やかすことではなく、相手の魂の成長を願うことだからです。
ヨガが深まれば、人は自然と集まる
では、好かれる努力をやめたら、生徒はいなくなってしまうのでしょうか?
私はそうは思いません。
あなたが他者の評価を気にせず、ただひたすらに自身のヨガを深めていくこと。
毎日マットの上に立ち、呼吸を整え、経典を読み、自分自身と誠実に向き合い続けること。
そうして培われた「静寂」や「強さ」は、言葉を超えて、あなたの在り方(プレゼンス)そのものから滲み出ていきます。
花は、ミツバチに好かれようとして咲くわけではありません。
ただ、自らの生命を全うして美しく咲いているから、自然とミツバチが集まってくるのです。
ヨガインストラクターも同じです。
あなたがヨガという道を真摯に歩み、その喜びや深みを体現していれば、その波動に共鳴する人が必ず現れます。
それは万人に受けるような華やかな人気ではないかもしれません。
しかし、あなたの伝えている本質を必要とする、ごく少数の、けれども深い縁で結ばれた生徒さんたちとの出会いが待っています。
そのような関係性こそが、サンガ(真理の友)と呼べるものではないでしょうか。
「私」を消して、ただのパイプになる
究極的に言えば、ヨガを教えているのは「あなた」ではありません。
ヨガという数千年の歴史を持つ巨大な叡智が、あなたというパイプを通して流れているだけです。
「私が教えている」「私の生徒だ」という意識(アハンカーラ)があるうちは、まだエゴが主役です。
インストラクターが「私」を透明にして、ただ純粋なパイプとして機能するとき、そこにはエゴのぶつかり合いは生まれません。
好かれるも嫌われるもなく、ただ必要な智慧が必要な人に届くだけです。
その境地に至ったとき、あなたは「好かれなくてもいい」と強がる必要さえなくなります。
ただ、そこに在るだけで、周りを照らす灯火のような存在になっているはずです。
終わりに:孤独を恐れないで
現代社会の同調圧力の中で、「好かれなくてもいい」と腹を括ることは、孤独な道のりに思えるかもしれません。
しかし、ヨガの道は本来、犀(サイ)の角のようにただ独り歩むものです。(仏教ですね)
その孤独は、寂しさではなく、自立した精神が持つ清々しさです。
どうぞ、周りの雑音に惑わされず、あなた自身のヨガを深めてください。
深く潜れば潜るほど、水面下の波立ち(他者の評価)は気にならなくなります。
そして、その深海でこそ、本当の自分自身と、そして世界とのつながりを見つけることができるのです。
あなたが、あなた自身のヨガを生きられますように。
その姿を見て、救われる人が必ずいます。
ではまた。


