ヨガを推奨しております。
そして、ヨガを伝える場としてのクラス運営も行っております。
時折、生徒さんや、これからヨガを教えたいという方から「クラス運営で大切にしていることは何ですか?」と問われることがあります。
集客のコツや、シークエンスの組み方、あるいは魅力的な声の出し方などを期待されているのかもしれません。
しかし、私の答えはいつも拍子抜けするほどシンプルです。
「嘘をつかないこと」
「飾らないこと」
「期待に応えようとしないこと」
これらは、私がヨガクラスという小さな場を運営する上で守っている指針であり、同時に、私自身の人生において大切にしていることと完全に一致しています。
というより、ヨガと人生は本来分けられないものです。
マットの上での在り方は、マットの外での生き方の縮図であり、その逆もまた然りだからです。
今日は、少し厳しい表現になるかもしれませんが、書きたいと思います。
商品は「私」ではないし、「ヨガ」でもない
現代の消費社会において、ヨガは巨大なマーケットの一部となりました。
そこでは「美しく痩せるメソッド」や「キラキラしたライフスタイル」が商品としてパッケージされ、大量消費されています。
インストラクターは、その商品を売るための「広告塔」であることを求められます。
「私のように美しくなれますよ」と、完璧なポーズと笑顔で誘惑し、生徒さんの劣等感や欠乏感を刺激して集客する。
はっきり言いますが、これはヨガではありません。
ただの「不安商法」です。
ルッキズム(外見至上主義)を助長し、終わりのない自己否定のループに人々を閉じ込める行為です。
私がクラス運営で大切にしているのは、自分を商品にしないことです。
私はグル(導師)でもなければ、憧れの対象でもありません。
ただの案内人です。
そして、ヨガそのものも商品ではありません。
ヨガは、誰かが所有して切り売りできるものではなく、万人に開かれた普遍的な真理であり、生きるための技術です。
だから私は、「痩せます」とも「綺麗になります」とも言いません。
それは嘘になるからです。
欲望を求める人生を推奨する人間になるのです。
結果としてそうなることはあるかもしれませんが、それを目的にした瞬間に、ヨガは本来の軌道から外れてしまいます。
私が提供できるのは、あなたがあなた自身に還るための「静かな時間と空間」だけです。
解剖学は、サマーディ(三昧)への切符ではない
最近のヨガ業界では、解剖学的な知識が過剰に重視される傾向があります。
「この筋肉がこう作用して」「骨盤の角度が何度で」
もちろん、怪我を防ぐための安全管理として、身体の構造を知ることは指導者の責任です。
しかし、どれだけ筋肉の名前を暗記しても、どれだけ骨格模型に詳しくても、サマーディ(三昧・悟り)に到達することはできません。関係がないと言ってもいいでしょう。
サマーディとは、思考が止まり、自他の境界が消滅し、ただ純粋な意識として存在している状態のことです。
そこに「大腿四頭筋」という概念は存在しません。
解剖学的な正しさに執着しすぎることは、むしろマインド(思考)を活発にさせ、内なる静寂から遠ざかる原因にもなり得ます。
「正しくポーズをとること」がゴールだと思っていませんか?
違います。ポーズはあくまで、身体という乗り物を整え、瞑想へと入っていくための準備運動に過ぎません。
私のクラスでは、細かいアライメントの修正よりも、「今、何を感じているか」という内観を優先します。
形が崩れていても、その人が深い呼吸と共に自分自身の内側に没入しているなら、それは完璧なアーサナ(坐法)なのです。
期待に応えない、という誠実さ
人生においても、クラス運営においても、私たちは常に他者からの期待に晒されています。
「もっとテンポよく動きたい」「もっと痩せるポーズを教えてほしい」「悩みを聞いてほしい」
そうした期待のすべてに応えようとすると、私たちは自分を見失います。
そして、「良い先生」「良い人」を演じるための仮面(ペルソナ)が分厚くなっていきます。
私が大切にしているのは、勇気を持って「期待に応えない」ことです。
それは冷たさではありません。
自分自身の軸(ダルマ)に誠実であるということです。
私が提供したいのはエンターテイメントとしてのヨガではなく、静寂と自己探求としてのヨガです。
それが合わない人が去っていくのは自然なことですし、そこに執着もしません。
人生も同じです。
親の期待、社会の期待、友人の期待。
それらを満たすために自分の魂を削って生きる必要はありません。
誰かに嫌われることを恐れず、自分の真実を生きること。
それが、結果として周りの人にとっても最も誠実な態度になると信じています。
ただ、在るということ
結局のところ、私がクラスで伝えたいことも、人生で実践したいことも、たった一つに集約されます。
それは「ただ、在る」ということです。
何かを足すのではなく、引いていく。
飾るのではなく、脱いでいく。
成し遂げるのではなく、手放していく。
クラスが終わった後、生徒さんの顔から「社会的な仮面」が剥がれ落ち、ふっと緩んだ無防備な表情が見られた時、私は心の中で小さくやり甲斐を感じます。
「ああ、今日は良いクラスだったな」と。
それは、その人が何者でもない、ただの生命(ひとついのち)に戻った瞬間だからです。
クラス運営も人生も、テクニックではありません。
どれだけ正直に、丸腰で、今この瞬間に立てるか。
その覚悟の連続こそが、ヨガという道なのだと思います。
ではまた。


