ヨガを推奨しております。
同時に、EngawaYogaではヨガを「教える」というスタンスをあまり重要視しておりません。
少し冷たく聞こえるかもしれませんが、これには理由があります。
今日は、ヨガにおける「成長」と「教えること」の関係について、少し静かにお話ししてみたいと思います。
教えない、という教え方
私はヨガを教えさせていただく立場にありますが、基本的なスタンスとして、「教える」ということに重きを置いておりません。
もちろん、怪我を防ぐための知識や、より深く入るためのサポートを出し惜しみするという意味ではありません。
そうではなく、「手取り足取り、細かく教えすぎない」ということを大切にしているのです。
「そもそも、細かく教える技術がないんじゃないの?」というツッコミは、一旦縁側の隅に置いておくとして(笑)。
私が手取り足取り教えることに慎重なのは、それがヨガの本質的なスタイルに合っていないと感じているからです。
ヨガとは、外から知識を詰め込むことではなく、内側から「気づく」プロセスだからです。
「こうしなさい」と言われて直したポーズと、「あ、こうすると呼吸が楽だ」と自分で気づいて深まったポーズ。
形は同じでも、その質は全く異なります。
私がしたいのは、正解を与えることではなく、気づきが起こるための「場」と「時間」を提供することなのです。
依存という名の足かせ
ヨガを教えていると、時折、強い「依存」の空気を感じることがあります。
「私の病気を治してほしい」
「手っ取り早く身体を柔らかくする方法を教えてほしい」
「先生、これで合っていますか?」
厳しい言い方になるかもしれませんが、そんなことはヨガにおいては、正直どうでもいいことです。
ヨガは魔法の治療法でもなければ、即席の柔軟体操でもありません。
実際には、淡々と練習を重ねていけば、身体は自然と出来上がっていきますし、柔軟性も高まります。
(もし長年やっていても身体が変わらない先生がいたとしたら、それは単純に練習をしていないだけかもしれません)
しかし、すぐに答えを求める姿勢は、自分自身の成長の機会を奪ってしまいます。
自分の身体に起きている問題や痛みは、自分自身へのサインです。
先生へのサインではありません。
そのサインを読み解くことができるのは、世界でたった一人、あなたしかいないのです。
正解なんて、どこにもない
私たちは学校教育の影響でしょうか、「正解」があると思い込んでいます。
ポーズに正解がある。呼吸法に正解がある。生き方に正解がある。
正解があると思うことは自由です。
ですが、正解があると思った瞬間、私たちは「不正解」を恐れ始めます。
「間違えたくない」
「正しい選択をしたい」
そう思うとどうなるでしょうか。
自分の感覚を信じられなくなり、外側に答えを探し始めます。
ネットで検索し、有名な先生の動画を見漁り、「これが正解ですよ」と言ってくれる権威を探し回る。
これを「情報探し(迷子)」と呼びます。
しかし、ヨガマットの上にあるのは、正解や不正解ではありません。
ただ、「今のあなたの状態」があるだけです。
ふらついてもいい、硬くてもいい、集中できなくてもいい。
そのカオス(混沌)の中に、あなただけの真実があります。
植物が育つように
成長とは、誰かに引っ張り上げてもらうものではありません。
植物が、太陽と水と土があれば、誰に教わらなくても自然と空へ向かって伸びていくように。
私たちも、適切な環境と日々の淡々とした実践があれば、長い目で見て自然と成長していくものです。
焦る必要はありません。
今日すぐに結果を出そうとしなくていいのです。
先生に正解を求めず、自分の内側にある微かな声に耳を澄ませてみる。
「あ、今日はここが詰まっているな」
「昨日はできなかったけど、今日は少し息がしやすいな」
そんな小さな気づきの積み重ねが、いつの間にかあなたを遠くまで連れて行ってくれます。
私たちは、もっと自分の生命力を信じていい。
手取り足取り教えられなくても、あなたは自分で歩いていけるのですから。
そんな自立した練習生(サダカ)が増えることを願って、私は今日もあえて「教えすぎない」ようにしています。
長い目で見れば、すべては自然と起こります。
焦らず、ゆっくりいきましょう。
とまぁ、結局このように教えすぎてしまうのです(汗)
ではまた。


