ヨガを推奨しております。
しかし、ここで言う「ヨガ」とは、煌びやかなウェアに身を包み、鏡の前で難解なポーズを決めることではありません。
それはあくまで現代社会が作り出した、消費と承認のためのエンターテインメントに過ぎません。
本来のヨガとは、心の作用を死滅させること(Chitta Vritti Nirodhah)であり、私たちが背負い込んでしまった過剰な荷物を、一つひとつ丁寧に下ろしていく作業です。
今日は、マットの上で、あるいはマットの外で、真にヨガを深めるための「10のポイント」を、少し辛辣な視点も交えながらお話しします。
もくじ.
本来のヨガへ還るための10の視点
1. 「得る」ための練習をやめる
私たちは資本主義社会の「得ること(Gaining)」の呪縛にかかっています。もっと筋肉を、もっと柔軟性を、もっと美しいポーズを。
しかし、ヨガは「減らすこと(Losing)」のプロセスです。
何かを獲得しようとする欲求(過剰ポテンシャル)は、修行の最大の障害となります。
マットの上で何かを得ようと必死になっている姿は、スーパーマーケットでタイムセールに群がる姿と何ら変わりません。
練習の目的は、筋肉をつけることではなく、緊張や執着を手放すことです。
足すのではなく、引く。その引き算の先にしか、静寂は訪れません。
2. 鏡を割り、ルッキズムの呪いから脱出する
多くのスタジオには壁一面に鏡がありますが、あれはヨガにとって最も不要な設備かもしれません。
鏡を見た瞬間、意識は「外側」へと飛び出します。「私のポーズは綺麗か」「隣の人より足が上がっているか」。
そこにあるのは内観ではなく、自己愛(ナルシシズム)と劣等感の往復運動です。
ヨガは「美しさ」を競うコンテストではありません。
古代の行者たちは、灰を塗り、髪を振り乱していました。彼らは「見られること」を放棄することで、自由を手に入れていたのです。
目を閉じてください。あなたの身体がどう見えているかではなく、どう感じているか。その内部感覚(プロプリオセプション)だけに意識を向けること。
ルッキズムという現代の病から離れることこそが、ヨガの第一歩です。
3. 解剖学の知識でサマーディ(三昧)には至れない
昨今、解剖学的に正しいアライメント(骨格配置)を追求する傾向が強まっています。怪我の予防としてそれは重要です。
しかし、どれだけ詳細に筋肉の名前を覚え、骨格の構造を理解したところで、それだけで悟り(サマーディ)に至ることは不可能です。
解剖学は「肉体という檻」の構造を知る地図にはなりますが、檻から出る鍵そのものではありません。
坐骨の位置を数ミリ修正することに血道を上げるあまり、呼吸が浅くなってしまっては本末転倒です。
私たちの本質は肉体を超えたところにあります。
肉体の精緻な操作に没頭しすぎることは、結局のところ、肉体への執着(アスミター)を強化しているに過ぎません。
ポーズの完成度よりも、その瞬間の心の静けさを優先してください。
4. 道具(ギア)への依存を断ち切る
「この高価なマットを使えば」「このブランドのウェアを着れば」。
それはマーケティングの罠であり、あなたを消費行動に縛り付ける「振り子」です。
本来、ヨガに必要なものは、あなたの身体一つと、畳一畳分のスペースだけです。
道具にこだわることは、依存心を育てることです。
弘法筆を選ばず、真のヨギはマットを選びません。
最高のグリップ力を持つマットがなければ集中できないのなら、それは集中力が足りないだけのこと。
モノへの依存を減らし、身一つで宇宙と対峙する野生を取り戻しましょう。
5. 呼吸こそが、唯一の「今」である
過去を悔やみ、未来を憂う。思考は常に時間の波にさらわれています。
その中で唯一、現在進行形で存在し続けているのが「呼吸」です。
ポーズがどれほど乱れても構いません。しかし、呼吸だけは乱してはいけません。
呼吸が浅くなるということは、意識が「今」から逃げ出し、エゴの物語に巻き込まれている証拠です。
吸う息で新しいエネルギー(プラーナ)を迎え入れ、吐く息で古い情報を手放す。
このシンプルな循環の中に留まり続けること。
難しいアーサナ(ポーズ)ができても呼吸が止まっているなら、それはただの我慢大会です。
6. 不快な感覚(カオス)へ自ら飛び込む
ヨガのポーズは、意図的に身体に負荷をかけ、擬似的な「危機的状況」を作り出す装置です。
股関節が強烈に引き伸ばされる不快感、逆転のポーズでの恐怖感。
私たちは通常、そうしたカオスから逃げようとします。
しかし、ヨガの練習とは、その不快さの中に留まり、それでもなお心の平穏を保つ練習です。
「嫌だ」「辛い」という反応(リアクション)を観察し、それらに飲み込まれず、ただ台風の目のように静かに佇む。
マットの上でカオスと仲良くなれれば、人生で予期せぬトラブル(カオス)が起きた時も、動じない自分がいられます。
7. 比較という地獄から抜ける
隣の人の柔軟性、SNSで見かける華麗なポーズ。
他者との比較は、ヨガの精神性を最も早く腐敗させます。
比較があるところには必ず「優越感」か「劣等感」が生まれ、それはエゴの肥大化に直結します。
ヨガは個人競技ですらありません。自分自身の内なる宇宙を探検する、孤独な旅です。
他人の庭の花を羨む暇があるなら、自分の庭の土を耕すべきです。
「あの人よりできている」と思った瞬間、あなたはヨガから脱落しています。
8. 「何もしない(Wu-wei)」を練習する
ポーズの合間のシャヴァーサナ(屍のポーズ)。多くの人はこれを「次のポーズへの休憩」と捉えていますが、大きな間違いです。
これこそがメインディッシュです。
「すること(Doing)」をやめて、「あること(Being)」に切り替えるスイッチ。
現代人は「何もしない」ことに罪悪感を抱きますが、その罪悪感こそが過剰なエゴの正体です。
全てのコントロールを手放し、重力に身を委ね、ただ床に溶けていく。
死の練習とも言えるこの時間を疎かにするならば、ヨガをする意味の半分は失われます。
9. マットの外での振る舞いこそが本番
クラスの中では聖人のように穏やかでも、帰りの駅で肩がぶつかって舌打ちをするなら、そのヨガは単なるストレッチ体操です。
マットの上での気づきは、日常に持ち帰るためのものです。
ヤマ(禁戒)・ニヤマ(勧戒)といった、日常での倫理的な実践なくして、アーサナの練習は成立しません。
真のヨギは、ポーズが美しい人ではなく、誰に対しても丁寧に、そして穏やかに接することができる人のことを指します。
10. 全てを忘れ、ただ遊ぶ(リーラ)
ここまで色々と述べましたが、最後にはそれら全ての教えさえも手放してください。
「こうしなければならない」という教条主義もまた、あなたを縛る鎖です。
深刻にならないこと。眉間に皺を寄せて悟りを開こうとしないこと。
ヨガは「リーラ(神の遊び)」です。
自分の身体の不自由さを笑い、転んでも笑い、その瞬間を子供のように楽しむこと。
深刻さは重さとなり、遊び心は軽さとなります。
軽やかな心には、過剰なポテンシャルは発生しません。
風のように、水のように。
ただ、その瞬間の生命の律動と遊ぶこと。
それこそが、私たちが目指す境地なのかもしれません。
おわりに
以上のポイントは、耳に痛いこともあるかもしれません。
しかし、甘い言葉でコーティングされたヨガは、一時の慰めにはなっても、本質的な変容をもたらすことはありません。
不要なものを削ぎ落とし、裸の魂でマットの上に立つ。
そんな練習を、縁側で共に深めていければ幸いです。


