ー意識の岸辺に打ち寄せるものー
私たちの生は、かつてないほどの豊かさの中にあります。しかし、その豊かさとは裏腹に、私たちの内面は静けさを失い、絶え間ない喧騒に苛まれているのではないでしょうか。目を覚ました瞬間から、スマートフォンが放つ青白い光が網膜を突き刺し、無数の通知、ニュース、意見の奔流が意識の中へと流れ込んでくる。部屋を見渡せば、いつか使うかもしれないモノ、過去の思い出を宿したモノ、未来の不安を担保するために買ったモノたちが、声なく空間を圧迫している。
私たちは、自らが作り出した情報とモノの洪水の中で、静かに溺れかけているのかもしれません。絶えず打ち寄せる波に翻弄され、自分自身の中心がどこにあるのかさえ見失い、ただ流されるままに息継ぎを繰り返している。この状態を、現代を生きる私たちの宿命として受け入れるしかないのでしょうか。
いいえ、そうではありません。この旅の最初の日に、まず私たちが行うべきは、大掛かりな片付けやデジタルデトックスといった行動を起こすこと以前に、ただ一つの事実を、静かに、そして深く認識することです。その事実とは、「自分は今、洪水の中にいるのだ」という、ありのままの現在地の確認に他なりません。この認識こそが、静寂を取り戻すためのすべての航海の、出発点となるのです。
精神の飽和:チッタ・ヴリッティという心の波紋
ヨガの叡智が凝縮された経典『ヨーガ・スートラ』は、その冒頭でヨガの目的をこう定義します。「Yogas-Chitta-Vritti-Nirodhah(ヨーガとは、心の作用を止滅することである)」。ここでいう「チッタ・ヴリッティ」とは、心の湖の表面に絶えず立ちのぼる波紋、すなわち思考、感情、記憶といった心の働き全般を指します。
私たちの心は、本来、静かで澄み切った湖のようなものです。しかし、外界からの刺激という石が一つ、また一つと投げ込まれるたびに、その表面には無数の波紋が広がります。情報とモノの洪水は、この石を、かつて人類が経験したことのないほどの速度と量で、私たちの心の湖に投げ込み続けている状態と言えるでしょう。
スマートフォンの通知音という小石、SNSのタイムラインという無数の砂利、所有物への執着という見えない重石。それらが引き起こすヴリッティ(心の作用)は、互いに干渉し合い、心を濁らせ、その奥底にあるはずの真の自己(プルシャ)の姿を覆い隠してしまいます。私たちは、この絶え間ない心の揺らぎそのものを、自分自身の人格や思考であると錯覚し、疲弊していくのです。
この構造を理解することは、極めて重要です。なぜなら、私たちが感じている息苦しさや焦燥感は、個人の能力や性格の問題ではなく、私たちが置かれている環境が、構造的に「チッタ・ヴリッティ」を増幅させるように設計されていることに起因するからです。
渇きをデザインするシステムの中で
なぜ私たちの周りには、これほどまでに情報とモノが溢れているのでしょうか。それは、私たちが生きるこの社会システムが、「成長」を至上の目的としているからです。経済が成長を続けるためには、人々が常に「もっと欲しい」と願い、新たな消費へと向かう必要があります。つまり、私たちの「満足」は、システムの維持にとって不都合なのです。
そのために、広告やメディアは洗練された手法で、私たちの内に「欠乏感」を植え付けます。「あなたはまだ足りない」「これがあればもっと幸せになれる」「他人はこれを持っている」。これらのメッセージは、私たちの心の湖にさざ波を立て、所有への渇望(仏教でいう渇愛)を掻き立てます。
同様に、アテンション・エコノミーと呼ばれる現代のデジタル環境もまた、私たちの注意力を商品として取引することで成り立っています。プラットフォームは、私たちの注意を一日でも長く、一秒でも多く引きつけるために、アルゴリズムを駆使して刺激的な情報を提供し続けます。私たちの有限な注意力は、いわば絶えず採掘され続ける資源と化しているのです。
この巨大なシステムの渦中にあって、個人の意志の力だけで心の平穏を保とうとすることは、嵐の海で手漕ぎボートを操縦するようなものです。だからこそ、まず必要なのは、この洪水の正体、すなわちそれが私たちの内なる弱さにつけ込む、高度に設計された外部の構造であることを客観的に認識することなのです。
認識という名の最初の砦
このDAY1で行うべき実践は、何かを捨てることでも、何かをやめることでもありません。ただ、「観察者」になることです。
朝起きてから夜眠るまで、どれだけの情報が自分の意識を通り過ぎていくかを、ただ眺めてみてください。スマートフォンの画面をスクロールする指の動き、次から次へと移り変わる思考、部屋にあるモノがふと意識にのぼる瞬間。それらの出来事を、良い悪いの判断を下すことなく、まるで川の流れを岸辺から眺めるように、静かに観察するのです。
この実践は、ヨガや瞑想における「サークシ(Sākṣī)」、すなわち「観照者」の意識を育む訓練です。洪水に飲み込まれ、流れの一部となっている状態から一歩退き、その流れそのものを客観視する視座を獲得すること。それによって初めて、私たちは自分が置かれている状況の全体像を把握することができます。
「ああ、今、自分は情報の波にのまれそうになっているな」「このモノを見るたびに、心が少しざわつくな」。この静かな気づきが生まれた瞬間、私たちは洪水の無力な犠牲者であることをやめ、状況に対応する主体性を回復し始めます。
私たちは、自分が溺れているという事実に気づかない限り、岸を目指して泳ぎ始めることすらできません。だからこそ、この最初の日は、行動を急ぐことなく、ただひたすらに、自らが立つ場所の現実を見つめることに捧げましょう。それは痛みを伴う認識かもしれません。しかし、この誠実な自己認識という最初の砦を築くことなしに、静寂という目的地にたどり着くことは決してないのです。



