「ヨーガとは、心の作用(チッタ・ヴリッティ)を止滅(ニローダハ)することである」。
これは、紀元後4世紀頃に編纂されたとされるヨガ哲学の根本経典『ヨーガ・スートラ』の、冒頭も冒頭、1章2節に記された言葉です。あまりにも有名で、あまりにも深遠なこの一節こそ、私たちがこれから歩む長い旅の目的地であり、同時に出発点でもあります。多くの人がヨガと聞いて思い浮かべるのは、しなやかな身体が織りなす美しいポーズ(アーサナ)かもしれません。しかし、ヨガの聖賢パタンジャリが示した本来の目的は、この「チッタ・ヴリッティ・ニローダハ」に集約されるのです。
まず、言葉を一つひとつ、丁寧に解きほぐしてみましょう。「チッタ」とは、単なる思考や感情を超えた、より広範な「心」そのものを指します。それは記憶の貯蔵庫であり、知性が働き、感情が渦巻く、私たちの内なる広大な領域です。次に「ヴリッティ」。これは「渦」や「波立ち」と訳され、心の中に絶えず生じては消えていく思考、感情、記憶、空想といった一切の作用を意味します。そして「ニローダハ」は「止滅」「制御」「静止」と訳されます。つまり、ヨガとは、心という湖に絶えず立ち続けるさざ波を鎮め、静謐な状態へと導くための体系的な技術である、と宣言しているのです。
なぜ、心の波立ちを鎮める必要があるのでしょうか。それは、波立つ水面には、空に輝く月が正しく映らないからです。私たちの本質、ヨガ哲学でいうところの「プルシャ(観る者、純粋意識)」は、その静かな水面にのみ映し出される真の自己の姿です。心が思考や感情の嵐でかき乱されている時、私たちはその嵐そのものが「自分」であると錯覚してしまいます。「私は怒っている」「私は悲しい」「私は能力がない」といったヴリッティと自分を同一化し、その物語の中で苦しむのです。しかし、ヨガの教えは、あなたは嵐ではない、嵐を静かに観察している空そのものである、と囁きます。
この「チッタ・ヴリッティ・ニローダハ」の思想は、仏教における「止観(サマタ・ヴィパッサナー)」の修行にも通底します。心を一点に集中させて波立ちを鎮める「止(サマタ)」と、その静かな心で物事の本質をありのままに観察する「観(ヴィパッサナー)」。どちらも、心の自動的な反応から脱し、世界の真実の姿を観るための道を示しています。
さて、この古代の叡智が、現代の私たちが関心を寄せる「引き寄せの法則」とどう結びつくのでしょうか。多くの引き寄せの実践書は「望むものに意識を集中させなさい」と説きます。しかし、心がヴリッティの嵐に飲み込まれている状態では、何を望むべきかというコンパスすら定まりません。不安や恐れ、過去の後悔、他者への嫉妬といった無数の波が、私たちの本当の願いを覆い隠してしまいます。仮に何かを願ったとしても、その願い自体が「これがないと幸せになれない」という欠乏感のヴリッティから発せられたものである可能性が高いのです。
「チッタ・ヴリッティ・ニローダハ」は、引き寄せを実践するための究極の土台作りと言えるでしょう。心の湖が静まり返った時、私たちは初めて、魂の奥底から湧き上がる、純粋で力強い「本当の望み」に気づくことができます。それは、誰かとの比較から生まれたものでも、社会的な成功を追い求めるものでもありません。静寂の中で発見されるその願いは、私たちの本質(プルシャ)と調和しており、宇宙の流れと共鳴する力を持っています。
量子力学の世界では、「観察者効果」という不思議な現象が知られています。観測されるまで可能性の波として存在していた素粒子が、観測された瞬間に一つの状態に定まる。私たちの意識もまた、この観察者に似ています。ヴリッティというノイズに満ちた意識は、カオスな現実しか映し出せません。しかし、ニローダハによって静まり返った純粋な意識は、無限の可能性の場から、望む現実をそっと「選ぶ」ことができるのかもしれません。
日々のアーサナや呼吸法、瞑想は、すべてこの「ニローダハ」へ至るための稽古です。ポーズの最中に湧き上がる「痛い」「できない」という思考の波をただ観察する。呼吸のリズムに意識を預け、思考の連鎖を断ち切る。そうした地道な実践の先に、心の静寂という、何物にも代えがたい宝物が待っています。それは、引き寄せ云々以前に、それ自体が至福の状態なのです。この静寂を知ることこそ、ヨガが私たちに与えてくれる最初の、そして最大の約束なのです。


