ヨーガの八支則という、内なる宇宙を探求する長い旅路も、いよいよその最終段階へと至ります。ヤマ(禁戒)、ニヤマ(勧戒)という社会生活と自己規律の土台を固め、アーサナ(坐法)によって身体という器を整え、プラーナーヤーマ(呼吸法)で生命エネルギーの流れを調え、プラティヤハーラ(制感)によって意識を内側へと反転させました。そして、ダーラナー(集中)で意識を一点に定め、ディヤーナ(瞑想)でその集中が途切れぬ流れとなったとき、その先には何が待っているのでしょうか。
その答えが、この八支則の頂点に輝く「サマーディ(三昧)」です。
「サマーディ」あるいは「三昧」という言葉を聞くと、私たちは何か非日常的で、常人には到達し得ない神秘的な境地を想像するかもしれません。確かに、それは日常の意識状態とは比較にならないほど深遠な体験です。しかし、それは決して超能力や特殊な才能によって得られるものではなく、これまでの七つの段階を、誠実に、根気強く、愛情を込めて実践してきた者すべてに、いずれ必ず訪れる自然な結実なのです。それは、丁寧に種を蒔き、水をやり、太陽の光を浴びせた植物が、やがて美しい花を咲かせるのと何ら変わりません。
この章では、ヨーガの旅の目的地であり、同時に新たな生の始まりでもあるサマーディとは一体どのような境地なのか、その深遠な世界を、言葉の及ぶ限り丁寧に解き明かしていきたいと思います。
もくじ.
サマーディとは何か? – 「私」が消え、対象そのものになる
サマーディという言葉は、サンスクリット語の「サム(sam:共に、完全に)」「アー(ā:〜へ)」「ダー(dhā:置く、結びつける)」という三つの語根から成り立っています。その文字通りの意味は、「完全に一つに結びつけられた状態」です。つまり、意識がその対象と完全に一体化し、主観と客観の区別が消え去った状態を指します。
ヨーガの聖典『ヨーガ・スートラ』の編纂者パタンジャリは、このサマーディを極めて簡潔かつ深遠に定義しています。
「それ(瞑想)そのものが、ただ対象としての意味だけを照らし出し、あたかも自己(の形)が空になったかのようであるとき、それがサマーディである。」
(『ヨーガ・スートラ』第3章3節)
前段階であるディヤーナ(瞑想)においては、まだ「瞑想している私」と「瞑想の対象」という二つの存在が意識されています。たとえば、静かな湖を瞑想の対象としているとき、ディヤーナでは「私が、静かな湖を思い浮かべている」という意識が残っています。そこには、意識の流れを維持しようとする、微かではあるものの継続的な意志の働きが存在します。
しかし、サマーディの境地では、この「私が」という主語が静かに消え去ります。意識は対象である湖そのものと完全に溶け合い、一体となります。もはや「湖を見ている私」はどこにもおらず、ただ、静かな湖の存在そのものだけが、光り輝いているのです。それは、一滴の水が大海に落ち、その境界線を失って大海そのものとなる様に似ています。自己という個別の意識が、対象という広大な存在の中に完全に没入し、その本質と一つになる。これがサマーディの核心です。
このとき、意識は時間と空間の制約から解放されます。過去への後悔も、未来への不安も、そこにはありません。ただ、永遠とも感じられる「今、ここ」の純粋な存在だけが広がっています。それは、私たちが普段、五感と思考を通して断片的に認識している世界とは全く異なる、世界の「全体性」との合一の体験と言えるでしょう。
サンニャマの力:世界の本質を直観する鍵
パタンジャリは『ヨーガ・スートラ』の第三章において、ダーラナー(集中)、ディヤーナ(瞑想)、サマーディ(三昧)という、ヨーガの内的な三つの段階をまとめて「サンニャマ(Saṃyama:総制)」と呼びました。
サンニャマとは、単に三つの段階を並べたものではありません。それは、この三つが有機的に統合され、一つの強力な認識の道具として機能する状態を指します。ダーラナーで狙いを定め、ディヤーナでその流れを維持し、サマーディで対象と一体化する。この一連のプロセスを通して、ヨーギー(ヨーガ行者)は、対象の表面的な姿形を超えて、その奥に秘められた本質を直接的に、直観的に把握する能力(プラジュニャー)を得るとされています。
これは、私たちが普段用いている分析的な知性とは全く質の異なる認識方法です。分析的知性は、対象を部分に分解し、比較し、論理的に結論を導き出します。それは非常に有用な道具ですが、常に対象を「外部から」観察する姿勢を崩しません。
一方で、サンニャマによる認識は、対象の「内側から」世界を体験するようなものです。対象と一体化することで、言葉や論理では決して到達できない、その存在の核心に触れるのです。たとえば、太陽に対してサンニャマを行えば、物理学的な知識としての太陽ではなく、太陽そのものの存在の神秘を直観的に知ると『ヨーガ・スートラ』は説きます。
このサンニャマの考え方は、現代を生きる私たちにとっても重要な示唆を与えてくれます。私たちは、知識や情報を得て何かを「コントロール」しようとすることが多いですが、サンニャマが教えるのは、対象と一体となり、深く「共感」することで本質を理解するという、全く異なる世界との関わり方です。それは、他者や自然を支配の対象としてではなく、自己の一部として尊重し、調和しようとする、ヴェーダ哲学の根底に流れる思想とも深く響き合っています。
サマーディの二つの階梯:種子と共に、そして種子を超えて
『ヨーガ・スートラ』は、サマーディをさらに二つの大きな段階に分類しています。それは「サヴィーシャ・サマーディ(有種子三昧)」と「ニルヴィーシャ・サマーディ(無種子三昧)」です。
サヴィーシャ・サマーディ(有種子三昧):支えのある静寂
「ヴィーシャ」とは「種子」を意味します。ここでの種子とは、私たちの心(チッタ)の奥底に眠る、潜在的な印象や記憶の集積である「サンスカーラ」や、輪廻の原因となる「カルマの種子」を指します。
サヴィーシャ・サマーディは、まだ何らかの瞑想対象(支え)を必要とする段階のサマーディです。意識は対象と一体化していますが、その心の静寂の中には、まだサンスカーラやカルマの種子が残っています。このサマーディから日常意識に戻ると、それらの種子が再び活動を始める可能性があるため、「種子のある」三昧と呼ばれます。
パタンジャリは、このサヴィーシャ・サマーディをさらに四つの段階に分類しています(ヨーガ・スートラ 1.17)。
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ヴィタルカ(尋): 粗大な物質的な対象(例えば神像や自然物)に意識を集中させ、一体となる境地。
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ヴィチャーラ(伺): 微細な対象(例えばタットヴァと呼ばれる宇宙の構成要素やプラーナ)に意識を向け、その本質を吟味し、一体となる境地。
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アーナンダ(歓喜): 対象への集中からさらに進み、感覚器官や心そのものに意識を向けたときに生じる、至福や歓喜の状態。
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アスミター(我慢): 「私は在る」という純粋な存在感そのものだけが対象となった境地。個としての自己意識の最も微細な形。
これらの段階は、意識が粗大なものから微細なものへ、そして外的なものから内的なものへと、徐々にその焦点を移していくプロセスを示しています。それは、玉ねぎの皮を一枚一枚むいて中心に迫っていくような旅です。
ニルヴィーシャ・サマーディ(無種子三昧):究極の解放
サヴィーシャ・サマーディの実践を深め、純粋な意識が確立されると、やがて究極の境地である「ニルヴィーシャ・サマーディ」が訪れます。「ニル」は否定を意味し、これは「種子のない」三昧です。
この境地では、もはや瞑想の対象(支え)すら必要ありません。心のあらゆる作用(ヴリッティ)は完全に止滅し、輪廻転生の原因となるサンスカーラやカルマの種子は、智慧の火によって完全に焼き尽くされます。まるで、燃え尽きた炭にはもはや火が宿らないように、心の活動が完全に停止した状態です。
これは、ヨーガが目指す最終目標である「解脱(モークシャ)」あるいは「カイヴァルヤ(独存)」と同義の境地です。純粋意識であるプルシャ(真我)が、物質原理であるプラクリティ(自性)から完全に分離し、それ自体の、本来の輝きの中に安住する状態です。
このニルヴィーシャ・サマーディは、もはや言葉で説明することも、思考で理解することも不可能です。それは「無」であり「空」であり、すべての対立概念を超越した絶対的な静寂です。しかし、それは何もない虚無なのではなく、すべての可能性を秘めた、無限の潜在力の源泉でもあります。EngawaYogaの縁側から眺める、どこまでも広がる青空のように、それはただそこに在り、すべてを静かに包み込んでいるのです。
梵我一如とサマーディ:哲学から体験へ
本書の第二部で詳しく見てきたように、ヴェーダの奥義書であるウパニシャッド哲学の核心には、「梵我一如(ブラフマン=アートマン)」という思想があります。これは、宇宙の根源的実在であるブラフマンと、個人の本質であるアートマンは、本質的に同一であるという真理です。
ウパニシャッドの賢者たちは、思索と瞑想を通してこの真理に到達しました。しかし、それを単なる知的な理解、つまり「私はブラフマンである」という知識として知っているだけでは、輪廻の苦しみから完全に解放されることはありません。
ここで、ヨーガの実践、とりわけサマーディの体験が決定的な意味を持ちます。ヨーガは、この「梵我一如」という哲学的真理を、頭で理解するだけでなく、サマーディの境地において全身全霊で「体験」するための、具体的かつ体系的な方法論なのです。
サマーディにおいて「私」という個の意識が溶け去り、対象と一体化する体験は、まさにアートマンがその個別の殻を破り、普遍的なブラフマンへと合一していくプロセスそのものです。知的な理解が、生きた実感へと変容する瞬間です。哲学が道を示し、ヨーガの実践がその道を歩むための足となる。この二つは、車の両輪のように、互いに補い合いながら、私たちを究極の真理へと導いてくれるのです。
サマーディへの道程:焦らず、執着せず、ただ歩む
これほどまでに深遠なサマーディの境地について学ぶと、「どうすればその境地に至れるのか」「自分にも可能なのか」という思いが湧き上がってくるのは自然なことです。しかし、パタンジャリはここで極めて重要な注意を与えています。
サマーディは、それを「獲得しよう」と渇望すればするほど、遠ざかっていくという逆説的な性質を持っています。なぜなら、「サマーディに入りたい」という欲望そのものが、心の作用(ヴリッティ)であり、サマーディが目指す「心の作用の止滅」とは正反対のベクトルを持つからです。
真の道は、結果への執着を手放し(ヴァイラーギャ)、ただ今この瞬間の実践(アビヤーサ)に、誠実に、淡々と取り組むことの中にしかありません。ヤマ、ニヤマを守り、アーサナで身体の声に耳を澄ませ、プラーナーヤーマで呼吸の流れを感じ、日々の瞑想で心を静める。その一つ一つのステップそのものが、すでにサマーディへと続く道なのです。
縁側に座って、ただ静かに庭の木々が風にそよぐのを眺めているとき。一杯のお茶を、その香り、色、温かさを五感でじっくりと味わっているとき。私たちは、日常生活の些細な瞬間の中にも、サマーディの静寂のかけらを見出すことができます。「私」という意識が薄れ、ただその行為そのものになりきる瞬間。それこそが、サマーディへの入り口です。
ヨーガの旅は、山頂を目指す登山に似ています。しかし、その喜びは山頂に立った瞬間にだけあるのではありません。一歩一歩、自分の足で大地を踏みしめ、道端に咲く小さな花に気づき、流れる汗を感じ、息遣いに耳を澄ます、そのプロセス全体が、かけがえのない喜びと学びに満ちています。
サマーディは、その旅の終わりであり、同時に、純粋な意識をもって再びこの世界を生き始めるための、新たな始まりでもあります。それは、日常からの逃避ではなく、日常のあらゆる瞬間に神聖さを見出すための、心の帰郷なのです。この叡智の扉は、特別な誰かのためでなく、探求の道を歩むと決めた、すべての人に開かれています。あなたの内なる旅が、静かで、深く、喜びに満ちたものでありますように。
ヨガの基本情報まとめの目次は以下よりご覧いただけます。


