ヨガの実践は、マットの上で行うアーサナ(ポーズ)や呼吸法だけにとどまるものではありません。パタンジャリが『ヨーガ・スートラ』の中で示した八支則のうち、第二支則であるニヤマ(勧戒)は、私たちが積極的に実践すべき、内面的な規律を説いています。そのニヤマの一つに、「スヴァディアーヤ(Svādhyāya)」という非常に重要な教えがあります。
スヴァディアーヤとは、「スヴァ(sva)=自己」と「アディアーヤ(adhyāya)=学習、探求、読むこと」という二つの言葉から成るサンスクリット語です。したがって、それは二つの側面を持つ実践を意味します。一つは、「自己探求」、つまり自分自身の思考、感情、行動パターンを客観的に観察し、自らの内なる本質を探求すること。そしてもう一つが、この探求の助けとなる「聖典の学習・読誦」です。今回は、後者の「聖典を読む」という行為が、いかに私たちの心を浄化し、意識を変容させる力を持つのかについて、深く掘り下げていきましょう。
私たちが日々触れる言葉のほとんどは、世俗的な情報や他者の意見、あるいは刹那的なゴシップです。これらの言葉は、私たちの心をラジャス的(激動的)に、あるいはタマス的(停滞的)にし、本質から遠ざけてしまう傾向があります。しかし、聖典の言葉は、その性質が全く異なります。『ヨーガ・スートラ』『バガヴァッド・ギーター』『ウパニシャッド』といった古の聖典や、様々な伝統における賢者たちの言葉は、時を超えた普遍的な真理を内包しています。それらは、悟りの境地から流れ出た言葉であり、極めて高いサットヴァ(純粋性・調和)の波動を宿しているのです。
スヴァディアーヤの実践として、これらの聖典を読んだり、あるいは声に出して唱えたりするとき、私たちは単に知識を得ているだけではありません。私たちは、その言葉が持つ神聖な「振動(ヴァイブレーション)」に、自らの心身を共鳴させているのです。これは、汚れたコップを、清らかな水の流れに浸すようなものです。最初は濁っていても、清らかな水が流れ込み続けることで、コップの中の水は次第に浄化され、透明になっていきます。同様に、聖典のサットヴァな言葉の流れに心を浸すことで、私たちの心に溜まったラジャスやタマスの不純物は洗い流され、本来の純粋で静かな状態へと還っていくのです。
また、スヴァディアーヤは、私たちを「私」という個人的で小さな視点から解放してくれる、という重要な役割も担います。私たちは日頃、自分の悩みや欲望という、非常に狭い視野の中で生きています。しかし、何千年もの間、無数の人々によって読み継がれてきた聖典の言葉に向き合うとき、私たちは、人類の叡智という壮大な文脈の中に自らを位置づけることになります。そこでは、自分の抱える問題が、いかに普遍的な人間の苦悩の一つであるか、そして、その苦悩を超えていくための道が、すでに先人たちによって示されていることに気づかされます。この気づきは、私たちに深い謙虚さと、大いなる安堵感をもたらしてくれるでしょう。それは、個人の物語から、より大きな共同体の物語へと参加する、魂の帰郷のような体験です。
「引き寄せの法則」との関連で言えば、スヴァディアーヤは、私たちの「信念体系」を意識的に書き換えるための、極めて効果的なツールです。私たちの現実は、私たちの無意識の信念によって形作られています。もし、私たちが「人生は闘いだ」「私は価値のない存在だ」といった制限的な信念を持っているなら、聖典が説く「あなたは神聖な意識そのものである」「世界は愛と調和に満ちている」といった、より高次の真理に触れ続けることで、その古い信念体系に光を当て、変容させていくことができるのです。心が浄化され、信念がより高い真理と一致したとき、私たちの放つ波動は自然に高まり、それに見合った現実が引き寄せられてくるのは、必然と言えるでしょう。
スヴァディアーヤの実践は、決して難しいものではありません。毎日、数分でもいいのです。聖典のページを開き、一段落だけでも、静かな心で読んでみる。意味が完全に理解できなくても構いません。ただ、その言葉の響きや、行間に流れる静寂を感じてみてください。また、広義のスヴァディアーヤとして、「自分の人生という書物」を客観的に読み解くこともできます。一日の終わりに、今日起きた出来事や自分の感情の動きを、まるで小説の登場人物を分析するように、静かに振り返ってみる。これもまた、自己の本質へと至る、尊い探求の道なのです。言葉の力を借りて、あなたの内なる神殿を清め、磨き上げていきましょう。


