光あるところには、必ず影が生まれます。喜びを追い求め、それにしがみつく心がラーガ(愛着)であるならば、その光が生み出す濃い影こそが「ドヴェーシャ(Dveṣa)」です。ラーガが「快」への執着であるのに対し、ドヴェーシャは「不快」への強い反発、嫌悪、憎悪を意味します。『ヨーガ・スートラ』が説く五つのクレーシャ(煩悩)の四番目にあたり、パタンジャリはこれを「苦しみ(ドゥッカ)の経験に付随するのがドヴェーシャである」(2章8節)と端的に定義しています。
ドヴェーシャは、私たちの日常に満ち溢れています。渋滞に巻き込まれた時のイライラ、理不尽な上司への憤り、自分の容姿や性格の気に入らない部分への自己嫌悪、病や老いへの恐怖と反発。これらすべてが、ドヴェーシャの多様な現れです。私たちは、自分にとって不快な人、物、状況を人生から排除し、遠ざけようと必死で戦います。それが、平穏な人生を手に入れるための正しい道だと信じて。
しかし、ここに巧妙な罠が隠されています。ヨガの叡智が教えるのは、私たちが何かを強く「嫌う」時、実はその対象に、自らの最も貴重な資源である生命エネルギー(プラーナ)を大量に注ぎ込んでいる、という逆説的な真実です。考えてみてください。あなたが心から嫌っている誰かのことを、一日のうちでどれくらいの時間、考えているでしょうか。その人の言葉を頭の中で反芻し、怒りを再燃させ、次の反論をシミュレーションする。その間、あなたの意識は完全にその人に乗っ取られ、あなたのエネルギーは、その嫌いな人をあなたの世界の中で「生かし続ける」ために浪費されているのです。
これは、武道における達人の教えにも通じます。未熟な者は、相手の力に力で対抗しようとし、消耗します。しかし達人は、相手の力を正面から受け止めず、柳のようにしなやかに受け流し、そのエネルギーを利用すらします。ドヴェーシャは、相手の突き出した拳に、自ら全力で顔面を打ちつけにいくような、最も非効率で自傷的な行為なのです。私たちが何かに抵抗する時、その抵抗そのものが、その対象を私たちの現実の中に縛り付ける、強力なアンカーとなってしまいます。
この心の仕組みは、「引き寄せの法則」の文脈において、決定的に重要な意味を持ちます。「貧乏は絶対に嫌だ」「孤独にだけはなりたくない」という強いドヴェーシャの感情は、皮肉にも「貧乏」や「孤独」という周波数に、あなたの意識のチューナーを合わせる行為に他なりません。宇宙は、「欲しい」か「嫌だ」かという言葉のラベルを解しません。ただ、あなたの意識が強くフォーカスし、感情のエネルギーを注いでいる対象(この場合は貧乏や孤独)を、「ああ、これがご望みなのですね」と解釈し、忠実に現実化してしまうのです。あなたが戦おうとすればするほど、敵はますます強力になってあなたの目の前に現れ続けるでしょう。
では、このドヴェーシャという名の消耗戦から、どうすれば撤退できるのでしょうか。その第一歩は、「戦わない」という選択を意識的に行うことです。心の中に不快な感情や嫌悪感が湧き上がってきた時、それを「悪」と断じて抑圧したり、正当化して増幅させたりするのではなく、ただ、その感情がそこにあることを「気づく」。そして、それと一体化せずに、静かに観察するのです。「ああ、今、私の心に『怒り』という客が訪れているな」と。
次に、視点を変える稽古をします。その不快な出来事や人物は、あなたの人生に何を教えるために現れた「鏡」なのだろうか、と問うてみるのです。理不尽な上司は、あなたに「健全な境界線を引くこと」を教えるための教師かもしれません。病は、あなたに「身体を慈しみ、生き方を見直すこと」を促すメッセンジャーかもしれません。この視点の転換は、あなたを被害者の立場から、人生の学び手という主体的な立場へと引き上げてくれます。
そして最も大切なのは、ドヴェーシャに注いでいた膨大なエネルギーを、あなたが本当に望む現実の創造へと、意識的に再投資することです。嫌いな人のことを考える10分間を、あなたの夢をビジュアライゼーションする時間に充てる。不満を口にするエネルギーを、感謝できることを三つ見つけるために使う。エネルギーのベクトルを「戦い」から「創造」へ、「抵抗」から「受容と許し」へと転換するのです。許しとは、相手のためではありません。あなた自身を、ドヴェーシャという毒から解放するための、最も効果的な解毒剤なのです。
嫌いなものをなくそうとする努力は、あなたを疲弊させ、さらなる嫌いなものを引き寄せます。そうではなく、ただ、好きなもの、愛するもの、感謝できるもので、あなたの心の庭を少しずつ満たしていくこと。そうすれば、雑草(ドヴェーシャ)が根を張る場所は、自ずとなくなっていくのですから。


