ヨガを推奨しております。
それは、ヨガが究極的には「自分をやめる」ための練習だからです。
「自分をやめる」なんて言うと、少しドキッとされるかもしれません。
「自己実現」や「自分探し」がもてはやされるこの世の中で、自分をやめるなんて、まるで人生を放棄するような響きに聞こえるからです。
でも、ふとした瞬間に思いませんか?
「ああ、もう自分であることに疲れたな」と。
朝起きて、鏡に映る「私」という顔を確認し、名前というラベルを貼り、社会的役割という衣装を着て、過去の記憶という脚本を握りしめて、今日も「私」という役を演じに出かける。
それを何十年も続けていれば、疲れて当然です。
そろそろ、その重たい着ぐるみを脱いで、休憩してもいい季節ではないでしょうか。
「自分」という一番の重荷
私たちが抱えている悩みや苦しみ。
そのほとんどすべての主語は「私」です。
「(私が)評価されなかったらどうしよう」
「(私が)将来お金に困ったらどうしよう」
「(私が)あの人に嫌われたかもしれない」
「(私が)もっと若くて才能があったらよかったのに」
全部、「私」です。
この「私(エゴ)」という強烈なフィルターがあるせいで、世界は色を失い、恐怖と不足の物語になってしまいます。
仏教やヨガの教えでは、この「私」への執着こそが苦しみ(ドゥッカ)の根源だと言います。
逆に言えば、「私」がいなくなれば、悩みもまた、立ちどころに消滅します。
「私」がいなければ、誰が評価を気にするのでしょうか?
「私」がいなければ、誰が老いを恐れるのでしょうか?
そこに残るのは、ただ流れる雲や、風の音、街のざわめきといった「現象」だけです。
そして不思議なことに、その「私」がいない状態のとき、私たちは最も深く満たされ、世界と調和しています。
美しい夕焼けに見とれているとき、美味しいお茶を飲んで「はぁ〜」と息をつくとき。
その瞬間、そこに「私」はいません。ただ「感動」や「味わい」があるだけです。
アイデンティティの衣替え
季節が変わると、厚手のコートを脱いで、軽やかなシャツに着替えたくなります。
同じように、心にも衣替えが必要です。
これまで大切にしてきた「頑張り屋の私」「責任感の強い私」「繊細な私」。
それらのアイデンティティは、かつてはあなたを守ってくれた大切な鎧だったかもしれません。
でも、今のあなたにとっては、もうサイズが合わなくなってきているのではないでしょうか。
窮屈で、暑苦しくて、動きづらい。
それなら、感謝して脱ぎ捨ててしまえばいいのです。
「自分をやめる」とは、自暴自棄になることではありません。
固定化された「こうあるべき自分」を手放して、何者でもない透明な存在(空)に戻ることです。
履歴書に書けるようなスペックは何もなくても、ただここに座って呼吸しているだけで、命としては完全である。
そんな原点に立ち返ることです。
無責任のススメ
「自分をやめる」ための具体的な練習として、EngawaYogaでは「シャヴァーサナ(屍のポーズ)」を大切にしています。
仰向けになり、手足を投げ出し、目を閉じる。
これは文字通り、一度「死んでみる」練習です。
マットの上で死体のふりをしている間、あなたには何の責任もありません。
上司の機嫌を取る必要も、良き母である必要も、夢を追いかける若者である必要もありません。
ただ重力に身を任せ、床に溶けていく。
世界は勝手に回っていきます。あなたがコントロールしなくても、心臓は動き、太陽は昇り、季節は巡ります。
その「大いなる自動運転」に、全幅の信頼を置いて、ハンドルから手を放す。
この「究極の無責任」こそが、最も深い癒しをもたらします。
何者でもない時間
現代社会は、私たちに「何者か(Somebody)」になることを強要し続けます。
特別な才能、影響力、成功。
「何者かにならなければ価値がない」という強迫観念が、私たちを駆り立てます。
でも、本当にそうでしょうか?
縁側に座って、ただ庭の木々を眺めているとき。
私たちは「何者」でもありません。
ただの「視点」であり、ただの「呼吸」です。
そして、その「何者でもない(Nobody)」時間こそが、枯渇したエネルギーを充電してくれるのです。
そろそろ、自分をやめてみませんか。
肩書きも、名前も、過去のストーリーも、一度玄関先に置いて。
ただの「命」として、お茶を飲みましょう。
「自分」がいなくなったあとに残るもの。
それこそが、本当のあなた(真我)なのかもしれません。
そんな静かな冒険を、この場所でご一緒できれば幸いです。
ではまた。


