瞑想を推奨しております。
しかし、ここで一つ、とても大切な、そして少し逆説的なお話をさせてください。
それは「瞑想を頑張らない」ということです。
「よし、今日から毎日1時間瞑想するぞ!」「絶対に悟りを開いてやるぞ!」「心を無にするぞ!」
そのような強い「やる気」や「意気込み」は、実は瞑想の入り口において、最も大きな障害物となってしまうことがあるのです。
「やる気」という名のエゴの罠
現代社会において、「やる気」や「モチベーション」は美徳とされています。
ビジネスでも勉強でもスポーツでも、高い目標を掲げ、強い意志を持って努力することが称賛されます。
私たちは子供の頃から「頑張れば報われる」「努力は裏切らない」と教え込まれてきました。
しかし、瞑想という営みは、この社会的な成功法則とは全く異なる次元にあります。
なぜなら、強い「やる気」の裏側には、必ず「今のままではダメだ」という自己否定と、「何かを達成して自分を大きく見せたい」というエゴ(自我)の欲求が隠れているからです。
「瞑想を成功させたい」
「瞑想によって素晴らしい人間になりたい」
「雑念を消し去ってコントロールしたい」
これらはすべて、「私(エゴ)」が主語になった思考です。
瞑想とは本来、この騒がしい「私」という存在を静かに脇に置き、ただ全体性の中にくつろぐことです。
それなのに、「私が!私が!」とエゴが力んでしまっては、本末転倒です。
パラシュートを開いて降りたいのに、必死に背中のリュックを握りしめているようなものです。
Doing(すること)からBeing(あること)へ
私たちの日常は「Doing(すること)」で埋め尽くされています。
タスクをこなす、問題を解決する、成果を出す。これらはすべて能動的な行為です。
一方、瞑想は「Being(あること)」の状態です。
ただ、そこに座っていること。ただ、呼吸していること。
目的もなく、達成もなく、評価もない。
「瞑想をやるぞ!」と意気込むことは、瞑想を「Doing」のリストに加えてしまうことです。
「会議資料を作る」「ジムに行く」「瞑想をする」。
これでは、瞑想もまた一つの「労働」になってしまいます。
労働には疲労が伴います。
「ああ、今日も瞑想しなきゃ…」と義務感になった時点で、それはもう瞑想ではありません。ただの我慢大会です。
ヨガの本質は、力を抜くこと(スティラ・スカ・アーサナム)にあります。
力みの中に、静寂は訪れません。
静寂は、私たちが握りしめている手をふっと緩めた瞬間に、向こう側から勝手にやってくるものなのです。
現代人の「過剰な期待」を手放す
現代人が瞑想に挫折する一番の理由は、「期待しすぎること」にあります。
「瞑想をすれば、すぐにストレスが消えるはずだ」
「集中力が劇的に上がって、仕事ができるようになるはずだ」
「神秘的な体験ができるかもしれない」
このような「対価」を求めて座ると、何も起こらない(ように見える)静かな時間に耐えられなくなります。
「なんだ、全然無にならないじゃないか」「時間の無駄だった」と、すぐにジャッジしてやめてしまうのです。
瞑想は、自動販売機ではありません。コインを入れたらすぐにジュースが出てくるようなものではないのです。
むしろ、泥水を入れたコップを静かに置いておくようなものです。
かき混ぜようと(コントロールしようと)すればするほど、泥は舞い上がり、水は濁ります。
「綺麗にしよう」という意気込みさえ捨てて、ただ放っておくこと。
すると、時間はかかるかもしれませんが、泥は自然と沈殿し、上澄みは驚くほど透明になっていきます。
「なんとなく座る」のススメ
では、どのような心持ちで座ればいいのでしょうか。
私は「なんとなく」でいいと思っています。
「ちょっと疲れたから、座ろうかな」
「天気がいいから、窓辺でぼーっとしようかな」
「お茶を飲むついでに、深呼吸でもしようかな」
そのくらいの、気負いのなさ。
猫が日向ぼっこをするような、自然な欲求。
それが一番、深い瞑想へと繋がっていきます。
意気込んで準備万端で臨むデートよりも、何気ない日常の会話の中にふと愛おしさを感じる瞬間があるように。
神聖な体験は、私たちが構えていない隙間に、そっと入り込んでくるものです。
日常に「隙間」を作るだけ
だから、どうか瞑想を「特別なイベント」にしないでください。
歯を磨くように、顔を洗うように、ただ淡々と、生活の一部に溶け込ませてみてください。
うまくできなくていいんです。雑念だらけでもいいんです。寝てしまってもいいんです。
「今日は座れたな。まあ、いいか」
そのくらいの軽やかさで。
現代社会は私たちに「もっと、もっと」と求め続けます。
だからこそ、瞑想の時間だけは「今のままで十分だ」という場所に帰るのです。
やる気も、向上心も、目標も、全部玄関に置いてきてください。
手ぶらで、ただ座る。
その無防備なあなたを、静寂はいつでも待っています。
お茶でも飲みながら。
そんな気楽さで、ご一緒できれば嬉しいです。
ではまた。


