「私は最新モデルのスマートフォンを持っている」「私は都心のタワーマンションに住んでいる」「私は限定品の腕時計を所有している」。口に出すか出さないかは別として、私たちは、自分が何を「持っているか」によって、無意識のうちに自分という人間の輪郭を描き、他者に提示し、そして自分自身を納得させてはいないでしょうか。
いつの頃からか、「何を持っているか(What I have)」が「私とは何者であるか(Who I am)」を定義するという、奇妙な価値観の倒錯が、私たちの社会では当たり前のものになってしまいました。この「所有=自己」という方程式は、一見すると分かりやすく、便利な自己紹介のツールのように思えるかもしれません。しかしその実、私たちの心を深く縛り付け、真の自由から遠ざける、巧妙な罠なのです。この記事では、この方程式がいかに私たちを不自由にしているかを解き明かし、所有物という外部の支えから自己(アイデンティティ)を解放し、より本質的で揺るぎない自己の在り方を探求する旅に出たいと思います。
アイデンティティと所有が癒着してしまった歴史
近代哲学の父、ルネ・デカルトは「我思う、故に我あり(コギト・エルゴ・スム)」という言葉で、近代的な「主体」のあり方を打ち立てました。ここでの自己の存在証明は、疑うことのできない「思惟する私」という、純粋に内的な活動に求められていました。しかし、時代が下り、市場経済が社会の隅々にまで浸透するにつれて、この主体のあり方は大きく変容していきます。
消費社会においては、デカルトの命題は、いわば「我買う、故に我あり」という形に書き換えられてしまいました。自己の存在価値は、もはや内的な思索によってではなく、市場で何を購入し、何を所有するかという、完全に外部化された行為によってしか確認できなくなったのです。どのブランドの服を着るか、どんな車に乗るか、どこのレストランで食事をするか。そうした消費選択の総体が、その人の個性や価値観を表現するポートフォリオとなり、それこそが「私」そのものである、と見なされるようになりました。
この傾向を決定的に加速させたのが、SNS、特にインスタグラムに代表されるビジュアル中心のプラットフォームです。そこでは、人々の生活が「見せるための所有」「見せるための消費」によって構成され、切り取られた「理想の自分」のイメージが流通しています。他者からの「いいね」という形での承認を得ること、それがあたかも自己価値の唯一の証明であるかのような錯覚が蔓延し、私たちは所有物という小道具を使って「私」というキャラクターを演じ続ける、果てしない舞台の上に立たされているのです。
所有に依存する自己の、避けられない脆弱性
しかし、このように所有物の上に築かれたアイデンティティは、宿命的に脆弱です。なぜなら、その土台である所有物は、常に失われる危険に晒されているからです。愛車は事故で傷つくかもしれません。自慢の家は災害で失われる可能性があります。最新だったガジェットはすぐに旧型になり、流行のブランド品はいずれ時代遅れになります。
所有物に自己を預けてしまっている人にとって、それを失うことは、単なる経済的な損失を意味しません。それは、自己のアイデンティティそのものが崩壊するという、耐えがたい恐怖に直結します。だからこそ、私たちは所有物を守るために過剰な不安を抱え、さらに新しい所有物を手に入れることで、かろうじて自己を維持しようと躍起になるのです。
さらに、この生き方は、私たちを他者との終わりのない比較地獄へと引きずり込みます。「あの人が持っているものより、自分のものは劣っている」という絶え間ない劣等感や、「もっと上位のものを手に入れなければ、自分の価値は認められない」という強迫観念に、常に苛まれ続けることになります。これは、他者の評価という、自分ではコントロール不可能なものに自己の根幹を委ねてしまう、極めて不自由な精神状態と言えるでしょう。
東洋の叡智が示す、揺るぎない自己の在り方
では、この所有物との癒着から自己を解放し、もっと確かで揺るぎない基盤の上に「私」を打ち立てることは可能なのでしょうか。そのための深遠なヒントを、東洋の思想の中に見出すことができます。
仏教の根幹をなす教えの一つに「無我(むが)」があります。これは、私たちが「私」と信じて執着している、固定的で不変な実体(我、アートマン)など、どこにも存在しないという洞察です。私という存在は、肉体や感覚、思考といった様々な要素(五蘊)が、因果関係の中で一時的に集まって機能している現象に過ぎません。この視点に立つならば、「私のもの」という所有の概念がいかに根拠のない幻想であるかが明らかになります。そもそも確固たる「私」がいないのですから、「私のもの」もありえないのです。この教えは、私たちを所有の呪縛から根源的に解き放ってくれます。
また、老荘思想は「空っぽの器」の比喩を好んで用います。老子は「器というものは、その中が空(から)であるからこそ、役に立つ」と説きました。自己を特定の所有物や社会的肩書、実績などで満たし、固定化してしまうのではなく、むしろ意図的に「空っぽ」の空間として保っておくこと。その「空(くう)」の余白があるからこそ、私たちは新しい経験を受け入れ、他者と真に出会い、状況に応じてしなやかに変容し続けることができるのです。所有物で自己を鎧のように固めるのではなく、何ものにも規定されない「空」として在ることに、真の強さがあるのです。
さらに、武道や芸道の世界に伝わる師弟関係のあり方も、示唆に富んでいます。これらの道では、自己とは、最初から自分の内側にあるものではなく、師から授けられた「型」を、疑うことなくひたすら身体で反復稽古するプロセスの中で、いわば事後的に立ち上がってくるものだと考えられています。ここで確立される自己は、ブランド品のような所有物ではなく、身体の隅々にまで染み渡った所作や呼吸、そして師や仲間との関係性の中に宿る、生きたアイデンティティなのです。
「持つこと」から「すること」、そして「在ること」へ
所有によって自己を定義する生き方から脱却するための具体的な処方箋は、自己の重心を「持つこと(Having)」から、「すること(Doing)」、そして究極的には「在ること(Being)」へと移行させていくプロセスの中にあります。
まず、「すること(Doing)」へのシフト。これは、「私は〇〇を持っている人」という自己紹介を、「私は絵を描く人」「私は丁寧に人の話を聞く人」「私は植物を育てるのが好きな人」といった、具体的な行為や実践に置き換えていく試みです。あなたの情熱はどこにありますか? あなたが時間を忘れて没頭できることは何ですか? その「行為」こそが、誰にも奪うことのできない、あなただけのアイデンティティの核となりえます。行為は他者との比較になじみにくく、むしろ他者や世界と具体的な関係性を結ぶための豊かな架け橋となります。
そして、そのさらに先にあるのが、「在ること(Being)」の次元です。これは、何かを成し遂げなくても、何かをしていなくても、何も持っていなくても、ただ「在る」というだけで、自分には計り知れない価値がある、という根源的な自己肯定の感覚です。これは理屈で理解するものではなく、ヨガや瞑想といった実践を通して、自らの身体感覚として体得していくものです。静かに座り、自分の内側で繰り返される呼吸の波を感じる時、私たちは、自分が社会的な役割や所有物とは無関係に、ただ生きている生命そのものであるという、動かしがたい事実に触れることができます。この「ただ在る」ことへの信頼こそが、あらゆる外的評価から自由な、真に揺るぎない自己の土台となるのです。
あなたが本当に誇るべきは、あなたのガレージに収まっている車でも、クローゼットに並んだ服でもありません。それは、あなたがこれまでに積み重ねてきた経験であり、築き上げてきた人間関係であり、そして今この瞬間も、世界に向かって開かれ、静かに呼吸を続けている、あなた自身の身体そのものであるはずです。所有という砂上の楼閣から降り立ち、あなた自身の生命という大地に、深く、静かに根を下ろしてみませんか。


