ヨガのクラスでは身体を動かしたあとに、シャバアサナと呼ばれるヨガのポーズで終えます。
このシャバアサナは仰向けになり、ただ寝るだけのようなポーズです。
ヨガのクラスの最後、必ず訪れるあの時間。
仰向けになり、手足を投げ出し、ただ床に身を委ねる「シャバアサナ(屍のポーズ)」。
「ただ寝ているだけでしょ?」「早く帰りたいからスキップしてもいい?」
忙しい現代人は、そう感じてしまうかもしれません。
アクティブに動くこと、汗をかくことには価値を感じても、「何もしない」ことには罪悪感すら抱いてしまう。
それが、私たちが生きる「生産性至上主義」の社会の病理でもあります。
しかし、あえて断言させていただきます。
シャバアサナこそが、ヨガの練習の中で最も難しく、かつ最も重要なアーサナ(ポーズ)です。
あれは休憩時間ではありません。
それまでのすべての動きや呼吸を統合し、果実を収穫するための、極めて積極的な「無為の時間」なのです。
今日は、なぜシャバアサナがこれほどまでに大切なのか、その本質的な理由を3つ、お話ししたいと思います。
もくじ.
1. 「Doing(すること)」から「Being(あること)」への帰還
現代社会において、私たちは常に「Doing」モードです。
仕事を処理し、家事をこなし、SNSをチェックし、自分を向上させるために努力する。
常に「何者かになるため」に走り続けています。
ヨガのクラス中でさえ、「もっと深く曲げなきゃ」「ポーズを完成させなきゃ」というDoingの意識が働いていることが多いでしょう。
シャバアサナは、このDoingのスイッチを強制的にオフにする練習です。
「屍(しかばね)」という名前の通り、死体には何もできません。
頑張ることも、評価することも、未来を心配することもできません。
ただ、そこに「在る(Being)」だけ。
このスイッチの切り替えこそが、自律神経のバランスを取り戻す鍵です。
交感神経(アクセル)全開の状態から、副交感神経(ブレーキ)優位の状態へ。
シャバアサナの静寂の中で、私たちは「何かを達成しなくても、ただここに存在しているだけで価値がある」という、生命の根源的な安心感を思い出すのです。
それは、現代人が最も忘れかけている感覚ではないでしょうか。
2. 身体とエネルギーの「統合(インテグレーション)」
ヨガの練習中、私たちは身体をねじり、伸ばし、逆さまにし、プラーナ(エネルギー)を大きく動かします。
それは、コップの水をかき混ぜて、底に溜まった泥(老廃物や感情のブロック)を浮き上がらせるような作業です。
シャバアサナは、そのかき混ぜられた水が、再び静かに澄んでいく時間です。
動かしたプラーナが全身の細胞の隅々まで行き渡り、神経系が新しいパターンを記憶するための時間とも言えます。
パソコンで例えるなら、再起動した後の「アップデートをインストールしています」という画面のようなものです。
あの最中に電源を切ってしまったら、システムはうまく更新されませんよね。
同様に、ヨガの直後にシャバアサナをせずに動き出してしまうと、せっかく整えたエネルギーが定着せず、散逸してしまいます。
動いた分だけ、静止する。
この陰と陽のバランスが取れて初めて、ヨガの効果は身体の深層に刻まれるのです。
3. 「死」の予行演習としての手放し
ヨガの哲学的な側面から見ると、シャバアサナは「死の練習」です。
私たちは普段、「私」という自我(エゴ)にしがみついて生きています。
私の身体、私の仕事、私の考え、私のプライド。
しかし、シャバアサナでは、そのすべてをマットの上に手放していきます。
肉体の感覚がなくなり、輪郭が溶け出し、呼吸をしている主体さえも曖昧になっていく。
これは、小さな死(リトル・デス)の体験です。
毎日、一度死んで、また生まれ変わる。
執着を手放し、空っぽになる。
そうやって「死」を疑似体験することで、私たちは逆説的に「生」の輝きを取り戻します。
古い自分を殺すからこそ、新しい自分が生まれるのです。
過去の失敗や未来への不安といった重荷を、屍のようにすべて放棄したとき、そこには純粋な意識だけが残ります。
その「空(くう)」の状態に触れることこそが、ヨガの究極の目的です。
終わりに:ただ、委ねるということ
もし、次のクラスでシャバアサナの時間になったら、焦る気持ちを脇に置いて、思い切って全身の力を抜いてみてください。
大地に身を沈め、重力に完全に降伏するのです。
何もしなくていい。
どこへも行かなくていい。
ただ、静寂の中に溶けていく。
その数分間の深い休息は、一晩の睡眠にも勝る回復力と、明日を生きるための瑞々しい活力を、あなたに与えてくれるはずです。
シャバアサナのためにヨガをしていると言っても、過言ではないのですから。
ではまた。


