私たちの生きる現代社会は、「Doing(行為)」の文化に深く根ざしています。朝起きた瞬間から夜眠るまで、「何かをしなければならない」という強迫観念に駆り立てられています。より多くを学び、より多くを稼ぎ、より多くを達成すること。それが価値ある人生だと、私たちは教え込まれてきました。その結果、私たちは「Being(存在)」、つまり、ただ、ここに在るという、最も根源的で最も満ち足りた状態をすっかり忘れてしまいました。
ヨガ哲学の根幹をなすヴェーダーンタの教えは、私たちの本質を「サット・チット・アーナンダ」であると説きます。「サット」は存在、「チット」は意識、「アーナンダ」は歓喜を意味します。つまり、私たちの最も深い核にある真我(アートマン)は、何かを達成したから価値があるのではなく、ただ「存在する」ということ自体が純粋な意識であり、無条件の歓喜に満ちている、というのです。これは、私たちの条件付けられた心にとっては、にわかには信じがたい概念かもしれません。
この「ただ、在る」という感覚を取り戻すための、最もシンプルで深遠な実践が「シャヴァーサナ(屍のポーズ)」です。マットの上に身体を横たえ、すべてのコントロールを手放す。筋肉の緊張を解き、呼吸を自然に任せ、思考が湧き起っては消えていくのを、ただ眺める。そこでは、何かを「する」必要は一切ありません。ただ、重力に身を委ね、大地に支えられている感覚、呼吸がひとりでに起こっている奇跡、そして、静かに存在している自分自身を感じるだけです。この深い休息と受容の中で、私たちは「Doing」の呪縛から解放され、純粋な「Being」の安らぎへと帰っていくのです。
この実践は、マットの上に限りません。公園のベンチに座り、ただ風が肌を撫でるのを感じる。一杯のお茶を、他の何ものにも気を取られずに、ただ静かに味わう。子供の寝顔を、何の判断も加えず、ただ愛おしく眺める。これらの瞬間、私たちは未来の計画や過去の後悔から解放され、「今、ここ」という永遠の次元にアンカーを下ろしています。
禅の世界には「只管打坐(しかんたざ)」という言葉があります。これは、悟りを得るなどの目的すら持たず、ただひたすらに座るという実践です。行為の中に目的を見出すのではなく、その行為そのものが、すでに完成された境地であるという、逆転の発想です。「ただ、在る」こともまた、それと同じです。何かのための手段ではなく、それ自体が究極の目的なのです。
この「ただ、在る」ことの価値を思い出す時、私たちの人生は根底から変容します。自己価値を証明するための絶え間ない競争から降り、無条件の自己受容という安らかな大地に立つことができるようになります。存在そのものが祝福であり、奇跡である。この深遠な事実に気づく時、私たちは、自らが探し求めていた平和と幸福が、すでにはじめから、自分自身の内側にあったことを知るのです。


