私たちの生きる現代社会は、まるで巨大な「所有」という名の競技場のようです。より多くを持ち、より良いものを手に入れることが成功の証であり、幸福への近道であるかのように、絶えず囁きかけてきます。広告は私たちの内なる欠乏感を巧みに刺激し、「これを手に入れれば、あなたは満たされる」という幻想を振りまきます。しかし、ヨーガの賢者たちは、その道の先に真の安らぎはないことを古くから知っていました。
ヨーガの八支則における第一の段階、ヤマ(禁戒)の最後に置かれているのが「アパリグラハ(Aparigraha)」です。日本語では「不貪(ふとん)」あるいは「不所有」と訳されます。これは単に「モノを持たない」というミニマリズムの実践に留まるものではありません。それは、私たちの意識の根底にある「もっと、もっと」という渇望、つまり貪りの心そのものを見つめ、そこから自由になるための深遠な教えなのです。
パタンジャリが編纂した『ヨーガ・スートラ』には、「アパリグラハが確立されると、過去生や未来生の原因を知る智恵が生じる(2章39節)」と記されています。これは一見、難解に聞こえるかもしれません。しかし、現代を生きる私たちの言葉で解釈するならば、こう言えるでしょう。「所有への執着から解放されたとき、私たちはなぜ自分が今ここにいるのか、そしてどこへ向かおうとしているのかという、人生の根本的な問いに対する洞察を得る」と。
所有という行為は、「私」という輪郭を強化します。これは「私の」家、「私の」車、「私の」キャリア、「私の」知識。そのようにして、私たちは所有物によって自己を定義し、他者との間に境界線を引いていきます。しかし、その境界線は安心感をもたらすと同時に、私たちを孤立させ、世界との一体性から切り離してしまうのです。仏教が説くように、執着は苦しみ(ドゥッカ)の根源です。何かを「私のもの」と握りしめた瞬間から、それを失うことへの恐れが生まれます。その恐れは、私たちの心を常に脅かし、束縛するのです。
アパリグラハが私たちに示すのは、「所有」から「体験」への意識のシフトです。考えてみてください。最新のスマートフォンを手に入れた時の喜びは、どれくらい続くでしょうか。おそらく数週間、あるいは数ヶ月でしょう。しかし、友と心ゆくまで語り合った夜の記憶、初めて訪れた異国の地で見た夕日の美しさ、新しいスキルを身につけた時の達成感といった「体験」は、私たちの内側に深く刻み込まれ、色褪せることのない豊かさとして残り続けます。体験は、誰にも奪うことのできない、あなただけの真の財産となるのです。
この身体そのものが、アパリグラハの偉大な教師です。私たちは呼吸を「所有」することはできません。吸った息は、必ず吐き出さなければ次の息を吸うことはできないのです。食事も同様です。体内に取り入れた食物は、エネルギーとして吸収された後、不要なものは手放されていきます。私たちの身体は、絶え間ない「受け入れ」と「手放し」の循環、つまり「通過」のプロセスそのものです。この生命の根源的なリズムに立ち返る時、私たちは所有という概念がいかに不自然であるかに気づかされます。
では、どのようにアパリグラハを実践すればよいのでしょうか。まずは、身の回りの物理的な空間から始めてみましょう。クローゼットを開き、一年以上着ていない服に「ありがとう」と告げて手放してみる。本棚に眠る本を、次に必要とする誰かのために寄付する。一つ手放すたびに、そこに物理的な空間だけでなく、心の「余白」が生まれるのを感じられるはずです。
買い物をする前には、自問自答する習慣をつけましょう。「これは本当に必要だろうか? 私の人生を、体験を、真に豊かにしてくれるものだろうか?」と。その問いは、衝動的な消費からあなたを守り、より意識的な選択へと導いてくれます。そして、お金や時間という資源を、モノではなく「体験」へと振り向けてみてください。それは、旅行や学び、芸術鑑賞、あるいは大切な人と過ごす何気ない時間かもしれません。
引き寄せの法則という観点から見ても、アパリグラハは極めて重要です。握りしめた拳には、何も入る余地がありません。宇宙があなたに素晴らしい贈り物を届けようとしても、両手が古いもので塞がっていては、それを受け取ることができないのです。執着を手放し、両手を開くこと。それは宇宙への信頼の表明です。「私には、もっと素晴らしいものがふさわしいことを知っています」という静かな宣言に他なりません。その信頼に満ちた「空(くう)」の状態にこそ、無限の可能性と真の豊かさが流れ込んでくるのです。アパリグラハとは、何かを失うことではなく、すべてを得るための、最も賢明な道なのです。


