ヨガを推奨しております。
それはヨガが、単に身体を柔らかくする体操ではなく、「生」と「死」という普遍的なテーマに真っ向から向き合うための哲学だからです。
今日は、少しドキッとするテーマかもしれません。
「死」についてお話しします。
現代社会では、死をタブー視し、できるだけ見ないように、考えないようにする傾向があります。
「縁起でもない」と遠ざけ、あたかも私たちは永遠に生きるかのように振る舞います。
しかし、ヨガの伝統において、死を見つめることは、生を輝かせるための最も強力なプラクティスの一つなのです。
死の瞑想(マラナ・サティ)
「死の瞑想」をご存知でしょうか?
これは文字通り、自分が死ぬ瞬間を強烈に、かつ詳細にイメージする瞑想です。
ベッドの上で息を引き取る瞬間の感情、冷たくなっていく手足、集まってくる家族の顔、そして自分がいなくなった後の葬式の風景。
それらを映画を見るように、ありありと心の中でシミュレーションしていきます。
「怖い」「暗い」と感じるかもしれません。
しかし、実際に目を閉じて、数分間だけでも真剣に自分の死をイメージしてみてください。
どうでしょうか。
目を開けたとき、目の前の景色が少し違って見えませんか?
当たり前のように吸っている空気の美味しさ、窓から差し込む光の美しさ、あるいは、隣にいる人の温かさに、胸が締め付けられるような愛おしさを感じないでしょうか。
「もう少し、しっかりと生きよう」
そんな静かで力強い思いが、湧いてきませんでしたか?
私はいつも思います。死を思うたびに、生への解像度がぐっと上がるのを感じます。
ジョブズの問いと、受験生の言い訳
あのスティーブ・ジョブズは、毎朝鏡に向かってこう問いかけたと言います。
「もし今日が人生最後の日だとしても、今日やる予定のことを私はやりたいと思うだろうか?」
この問いは、私たちの人生の軌道修正を促す強力な羅針盤となります。
惰性で続けている習慣、義理で付き合っている関係、本当はやりたくない仕事。
「死」という絶対的な期限を前にしたとき、それらの不要なものは削ぎ落とされ、本当に大切なものだけが残ります。
私自身の話を少しさせてください。
かつて受験勉強に追われていた頃、私はよくこんな問いを持っていました。
「もし明日この世が終わると分かっていても、俺は勉強するのか?」
これはジョブズのような高尚な問いではありません。ただの勉強をしたくない自分への言い訳です(笑)。
「どうせ死ぬなら遊ぼうぜ」という逃避ですね。
しかし、本来の死の瞑想が目指すのは、自暴自棄になることでも、虚無感に浸ることでもありません。
「どうせ死ぬから何もしない」のではなく、「いつか死ぬからこそ、今この瞬間を完全燃焼する」という、圧倒的な肯定へと至るためのものです。
その悩みは、死の前でも重要ですか?
今、悩み事はありますか?
人間関係、仕事のプレッシャー、将来への不安。多かれ少なかれ、誰にでもあるでしょう。
それらの悩みを抱えたまま、もう一度、死を強烈にイメージしてみてください。
あと1時間で心臓が止まるとしたら。
その悩みは、まだあなたを苦しめるほど重要なものでしょうか?
上司に怒られたこと、SNSで「いいね」がつかなかったこと、過去の失敗を恥じていること。
死という巨大な波の前では、それらの悩みは砂粒のように小さく、取るに足らないものに見えてくるかもしれません。
あるいは逆に、「これは絶対にやり遂げたい!」「あの人に『ありがとう』だけは伝えなきゃ!」と、魂の底からやる気がみなぎってくるかもしれません。
どうですか。あなたの悩みは、質感が変化しましたか?
逃げる勇気と、立ち向かう勇気
死を意識することで、「どうでもいいこと」からは全力で逃げ出し、「本当に大切なこと」には全力で立ち向かう勇気が生まれます。
嫌なことから逃げるというのは、緊急事態にはとても大事なアクションです。
あなたの命を削ってまで、我慢すべきことなどこの世にはほとんどありません。
「死ぬほど嫌なこと」からは逃げていい。
でも、「死んでもやりたいこと」からは逃げてはいけない。
その選別をしてくれるのが、死というフィルターなのです。
ヨガとは、死の予行演習
ヨガの教えにおいて、最も有名なポーズの一つに「シャヴァーサナ(屍のポーズ)」があります。
クラスの最後に、仰向けになり、全身の力を抜いて動かなくなる時間。
あれは単なる休憩ではありません。
文字通り「屍(しかばね)」になり、死を疑似体験する練習です。
肉体への執着を手放し、役割や肩書きを手放し、エゴの物語を手放す。
そうして一度「死ぬ」ことで、私たちはマットの上で新しく生まれ変わります。
ヨガとは、毎日小さな死と再生を繰り返す営みとも言えるでしょう。
死ぬことを意識したっていいじゃないですか。
むしろ、死をポケットに入れて持ち歩くくらいで丁度いい。
「メメント・モリ(死を忘れるな)」。
その言葉は、私たちに「今を生きろ」と、今日も優しく語りかけています。
ではまた。


