ヨガを実践しておりますと、どうしても「コントロール」という言葉が頭をよぎることがあります。
体をコントロールし、呼吸をコントロールし、心をコントロールする。
あたかも、自分がこの心身の「主人」であり、操縦席に座って自在に動かせるかのような錯覚に陥りがちです。
しかし、マットの上に立ち、静かに自分と向き合った時、私たちは一つの動かしがたい事実に直面します。
それは、「この体も心も、ちっとも思い通りにはならない」ということです。
今日は、この「思い通りにならなさ」を出発点に、私という存在の不思議について、少し静かに考えてみたいと思います。
私の体なのに、私のものではない?思い通りにならない体と心で出来ている私という不思議
例えば、心臓を止めてみてください、と言われてもできません。
昨日のランチを消化するのを今すぐやめてください、と言われても不可能です。
爪が伸びるのを止めたり、白髪が生えるのを気合いで阻止することもできません。
私たちは「私の体」と呼びますが、その営みの99%は、私の意識とは無関係に、自動的に行われています。
夜、私たちが意識を手放して眠り込んでいる間も、この体は黙々と酸素を取り込み、細胞を修復し、命を繋いでくれています。
まるで、大いなる自然の力が、私の体を「借りて」働いているかのようです。
ヨガのポーズ(アーサナ)をとっている時もそうです。
「もっと深く前屈したい」「もっと柔らかくなりたい」とエゴがどれだけ願っても、体はその日の状態、その瞬間の限界を正直に見せてくれます。
無理にねじ伏せようとすれば、痛みとして反乱を起こします。
体は、私の所有物や奴隷ではなく、独自の意思とリズムを持った、一つの「生命体」であり「パートナー」なのです。
心はもっと、言うことを聞かない
体以上に厄介なのが、心です。
「今日はポジティブでいよう」と決めた3秒後には、過去の失敗を思い出して落ち込んでいたりします。
「瞑想をして無になろう」と座った瞬間に、「今日の夕飯は何にしようか」という思考が湧いてきます。
不安、怒り、嫉妬、悲しみ。
これらの感情は、招待してもいないのに勝手にやってきて、私たちの内側に居座ります。
私たちは自分の心をコントロールできると信じていますが、実際には、湧き上がってくる思考や感情に対して、無力に近いのが正直なところではないでしょうか。
ヨガでは、心を「暴れる猿」や「酔っ払った象」に例えることがありますが、まさに言い得て妙です。
「思い通りにならない」を受け入れた時
現代社会では、「思い通りにすること」=「成功・能力が高い」とされがちです。
自己管理、メンタルコントロール、ボディメイク。
すべてを自分の意志の配下に置くことが、良しとされます。
しかし、ヨガの視点は少し違います。
ヨガは「思い通りにする」ための訓練ではなく、「思い通りにならないこと」を受け入れる練習です。
硬い体も、乱れやすい心も。
「なんでこうなんだ!」と否定したり、矯正しようと戦ったりするのではなく、「ああ、今はこうなんだな」と、ただ認めてあげること。
「サントーシャ(知足)」という教えがありますが、これは現状に妥協することではなく、今の不完全な状態の中に、完全な生命の働きを見出すことです。
思い通りにならない体と心があるからこそ、私たちは謙虚になれます。
自分の力(エゴ)を超えた、何か大きな流れ(サムシンググレート)の存在を感じることができます。
「私が生きている」のではなく、「生かされている」のだという感覚。
その降参(サレンダー)の感覚が訪れた時、不思議と体は緩み、心は静まり始めます。
パラドックスのようですが、コントロールを手放した時に初めて、本当の意味での調和が訪れるのです。
「私」という不思議な同居人
そう考えると、「私」という存在は、本当に不思議です。
私の言うことを聞かない体と、勝手に騒ぎ出す心。
そんな、まるで別人のような要素が寄せ集まって、一つの「私」という現象を形作っています。
私たちは、この体と心の「操縦者」ではないのかもしれません。
もっと静かな「観察者」であり、「同居人」なのかもしれません。
思い通りにならないパートナーたちと、どうやって仲良く、機嫌よく暮らしていくか。
ヨガとは、そのための対話の時間です。
「今日は肩が凝ってるね、お疲れ様」
「今日は心がザワザワしてるね、何かあった?」
そんな風に、自分の体や心に優しく声をかけてあげる。
支配するのではなく、寄り添う。
管理するのではなく、愛でる。
ENGAWA STUDIOで、ぼんやりと空を眺めている時のような、そんな適度な距離感で自分自身と付き合えたら、人生はずっと楽に、シンプルになるような気がします。
思い通りにならないことこそが、自然である証拠です。
その不自由さを、面白がれる余裕を持てたら素敵ですね。
ではまた。


