ー安全という名の、美しき牢獄ー
私たちは、本能的に「安定」を求め、未来を「予測」し、「コントロール」しようと努める生き物です。不確実性は不安の源であり、予期せぬ出来事はリスクと見なされる。この傾向は、人類が過酷な自然環境の中で生き延びるために培ってきた、極めて重要な生存戦略でした。そして現代社会は、この生存戦略を、テクノロジーとシステムの力で極限まで推し進めようとしています。
私たちは、キャリアプランを立て、資産計画を練り、スマートフォンのカレンダーに数ヶ月先の予定までびっしりと書き込む。リスクをヘッジするために保険に入り、失敗を避けるために前例を徹底的に調べる。こうして、私たちは人生という、本来は予測不可能な荒々しい川の流れを、コンクリートで固められた、安全で、予測可能な運河へと変えようと、懸命に努力しているのです。
しかし、その安全な運河を、一寸の狂いもなく進んでいく人生の先に、本当に私たちの心が求める「豊かさ」や「喜び」は待っているのでしょうか。それとも、そこにあるのは、安全ではあるけれど、何の驚きもない、色あせた風景が永遠に続く、一種の「退屈」という名の牢獄ではないでしょうか。
今日、私たちは、この安定と予測可能性への信仰に、静かな疑問符を投げかけます。そして、人生の本当の美しさや、魂が震えるような瞬間は、しばしば、私たちの計画の外側から、予期せぬ「偶然」や「脱線」という形で訪れるという、逆説的な真実を探求していくのです。
計画・予測・管理:近代という名の思考様式
未来を予測し、合理的な計画に基づいて現在を管理するという思考様式は、近代社会、特に西洋の合理主義思想の産物です。科学技術の発展は、「自然は、人間の理性によって解明し、コントロールできる対象である」という信念を育みました。この世界観は、社会システムや、個人の生き方にまで浸透し、「計画通りに進むこと」が善であり、「計画から逸脱すること」が悪であるという価値観を、私たちの無意識に深く刻み込んだのです。
この思考様式は、確かに、生産性を飛躍的に向上させ、物質的な豊かさをもたらしました。しかし、その代償として、私たちは、世界の持つ神秘性や、予測不可能性に対する畏敬の念を失ってしまったのかもしれません。すべてが計算可能で、コントロール可能であるという幻想は、私たちを傲慢にし、同時に、自分たちの計画の枠に収まらないもの、すなわち「偶然」や「運」といった要素を、排除すべきノイズとして扱うように仕向けたのです。
このあり方は、私たちの「時間」に対する感覚をも変容させました。私たちは、時間を、未来の目標達成のために効率的に使われるべき、直線的で均質なリソース(ギリシャ語でいう「クロノス」)として捉えるようになりました。しかし、古代の人々が感じていたであろう、もう一つの時間、すなわち、予期せぬ瞬間に訪れる、決定的な意味を持つ瞬間、あるいは好機(ギリシャ語でいう「カイロス」)の感覚を、私たちは忘れてしまったのではないでしょうか。人生を変えるような出会いや、魂を揺さぶるような芸術体験は、決してカレンダーに書き込めるものではありません。それらは常に、カイロス的な時間の中に、不意に立ち現れるものなのです。
無用の用とケリグマ:東洋と西洋の叡智
この近代的な計画主義とは異なる世界の捉え方を、古今東西の叡智の中に見出すことができます。
中国の思想家、荘子は、「無用の用」という逆説的な概念を説きました。世間の人々が「役に立たない」と見なすものの中にこそ、真の「大いなる有用性」が隠されている、という思想です。例えば、誰もが見向きもしない、こぶだらけで使い物にならない巨木は、木材として切り倒されることがないために、何百年も生きながらえ、人々に木陰を提供し、神木として崇められる。計画や効率性といった、人間の小さな物差し(有用性)から自由であることによって、その木は、本来の生命を全うし、より大きな役割(大いなる用)を果たすのです。
予測可能な、計画通りの人生とは、いわば「有用性」に縛られた人生です。回り道や、一見無駄に見える寄り道(無用)を切り捨てることで、私たちは、そこに眠っていたかもしれない、予期せぬ宝物や、自分でも知らなかった可能性に出会う機会を、自ら放棄してしまっているのかもしれません。
また、ある思想家は、先ほどのカイロス的な時間を、さらに深め、「ケリグマ(kerygma)」という言葉で表現しました。ケリグマとは、元々はキリスト教で「福音の告知」を意味する言葉ですが、彼はそれを、人生において、予期せず訪れる、自己の存在の根幹を揺るがすような「呼び声」や「告知」として捉え直しました。それは、私たちの計画や日常性を突き破り、「お前は、本当は、このように生きるべきではないか」と問いかけてくる、抗いがたい出来事です。このケリグマ的な瞬間に、いかに誠実に応答できるか。それこそが、人生の深さを決定づけるのです。
予測可能な人生とは、このケリグマが訪れる可能性を、構造的に排除しようとする試みです。しかし、魂の成長は、安全な日常の繰り返しの中ではなく、この予測不可能な呼び声に応答し、未知の領域へと一歩を踏み出す、その勇気の中にこそあるのではないでしょうか。
不確実性を祝うための、ささやかな実験
では、どうすれば、私たちは、この予測可能性という名の快適な牢獄から、一歩を踏み出すことができるのでしょうか。それは、人生を賭けた大きなギャンブルをするということではありません。日常の中に、意図的に「偶然性」や「不確実性」を招き入れる、ささやかで、遊び心に満ちた実験から始まります。
1. 「予定のない日」を聖別する
月に一度、あるいは週に一度でも構いません。カレンダーに「予定なし」と書き込み、その日を、いかなる計画からも守られた「聖域」として確保します。そして、その日は、朝起きた瞬間の気分や、ふとした思いつき、あるいは街角で偶然見かけたポスターの誘いなど、その瞬間の「流れ」に、完全に身を委ねて過ごしてみるのです。この実践は、計画という自我のコントロールを手放し、世界からの予期せぬ贈与を受け取るための、受信感度を高める訓練となります。
2. 偶然性に、決断を委ねてみる
いくつかの選択肢で迷ったとき、例えば、ランチのメニューや、週末に見る映画などで、あえてサイコロを振ったり、コインを投げたりして、決断を「偶然」に委ねてみる、という遊びを試してみましょう。これは、常に「最適解」を求めようとする、私たちの合理的な思考の癖を緩めるための、効果的なエクササイズです。そして、偶然がもたらした選択肢を、たとえそれが自分の好みでなかったとしても、一つの「お告げ」として面白がり、楽しんでみる。その姿勢が、人生における、より大きな不確実性を受け入れるための、心の柔軟性を育んでくれます。
3. ルーティンという名のレールから、意図的に脱線する
私たちは、無意識のうちに、毎日同じ通勤路を歩き、同じ店で買い物をし、同じ人々と会話するという、快適なルーティンのレールの上を生きています。今日、そのレールから、ほんの少しだけ、意図的に脱線してみましょう。一本違う道を歩いてみる。普段は入らないような、小さな喫茶店に立ち寄ってみる。職場で、いつもは話さない人に、声をかけてみる。この小さな逸脱が、日常という見慣れた風景に、新鮮な驚きと、新たな発見の風を吹き込んでくれるはずです。
予測可能な人生は、私たちに安心を与えてくれるかもしれません。しかし、それは、まだ見ぬ自分自身と出会う可能性や、世界が隠し持つ無限の豊かさから、私たちを隔絶してしまう壁にもなり得ます。その壁に、ほんの少しの亀裂を入れる勇気を持つこと。計画通りに進まないことを、失敗として嘆くのではなく、新たな冒険の始まりとして、静かに祝うこと。そのとき、人生は、退屈な運河から、再び、予測不可能で、きらめきに満ちた、雄大な川の流れへと、その姿を取り戻すのです。


