私たちの心は、思考の生産工場です。朝、目覚めた瞬間から、夜、眠りに落ちる最後の瞬間まで、この工場は休むことなく稼働し続け、過去の記憶、未来の計画、自己批判、他者への評価といった、ありとあらゆる種類の思考を、とめどなく生み出し続けています。私たちは、この絶え間ない思考の流れと自分自身をあまりに強く同一化しているため、まるで自分が思考そのものであるかのように感じています。そして、その流れを止めようと試みては、無力感に苛まれるのです。
しかし、もし、その思考の流れを無理に堰き止めようとするのではなく、流れそのものの性質を、注意深く観察してみたとしたら、どうでしょうか。どんなに激しい川の流れにも、淀みや、渦と渦の間の静かな水面が存在するように、私たちの思考の流れにも、実は「間」や「隙間」が存在していることに気づくはずです。
この気づきを助けるために、しばしば用いられるのが「空と雲」の比喩です。思考は、空に浮かび、流れていく雲のようなものです。私たちは普段、次から次へと現れる雲(思考)の形や色、動きばかりに気を取られ、その雲が浮かんでいる広大な背景、すなわち、どこまでも青く澄み渡った「空」の存在をすっかり忘れてしまっています。
瞑想とは、この視点を転換する訓練です。私たちは雲を消し去ろうとはしません。ただ、座り、心という空に、様々な思考の雲が生まれ、形を変え、そしてやがて消え去っていくのを、何の判断も加えずに、ただ眺めるのです。嬉しい思考、悲しい思考、怒りの思考、不安の思考。どんな雲が現れても、それに同一化せず、ただの「雲」として客観的に観察します。
この観察を続けていると、ある瞬間に、はっと気づくのです。一つの雲が流れ去り、次の雲が現れるまでの、ほんのわずかな瞬間に、雲ひとつない、純粋な「空」そのものが顔を覗かせる瞬間があることに。これこそが、「思考の隙間に広がる静寂」です。
この静寂は、私たちが作り出すものではありません。それは、思考の騒音が止んだ時に、自然に現れてくる、私たちの意識の最も深く、最も根源的な性質です。それは、あらゆる思考、感情、感覚が生まれては消えていく、広大無辺の「背景」あるいは「スクリーン」のようなものです。この静寂こそが、私たちの本来の家、真の自己(アートマン)の在り処なのです。
この体験は、仏教思想における「空(シューニャター)」の概念を、難解な哲学としてではなく、直接的な実感として理解させてくれます。「空」とは、何もない「無」のことではありません。それは、あらゆるものを生み出す可能性を秘めた、無限の創造性の源泉です。形を持たないがゆえに、あらゆる形を取りうる、純粋なポテンシャルの場。それは、現代物理学が語る「ゼロポイント・フィールド」、すなわち、すべての物質が生まれる前の、エネルギーに満ちた真空の状態とも、どこか響き合うものがあります。
引き寄せの法則は、この「空」の領域と深く関わっています。私たちが普段、思考のレベルで「こうなりたい」と願う時、それはしばしば過去の経験や既存の制限に基づいた、限定的な願望に過ぎません。しかし、瞑想によって思考の隙間にある静寂、すなわち「空」の領域に触れる時、私たちは、それまでの古いパターンや信念体系をリセットし、まったく新しい現実を創造するための、無限の可能性の場にアクセスすることができるのです。
引き寄せとは、この無限の可能性の海から、あなたの純粋な意図という釣り糸を垂らし、一つの可能性を釣り上げ、現実世界という岸辺に結晶化させるプロセスである、と言えるかもしれません。その創造の力の源泉は、騒がしい思考の中にはありません。それは、思考と、思考の間に広がる、豊かで、静謐な、あの広大な空の中にこそ、常にあなたを待ち受けているのです。


