「愛」という言葉ほど、豊かで、同時にありふれた言葉はないかもしれません。私たちは恋愛を語り、家族愛を育み、友愛を確かめ合います。しかし、ヨガ哲学の視座からこの「愛」を深く見つめるとき、それは単なる感情や人間関係の様式を超えた、宇宙の根本原理に触れるための最も重要な鍵であることがわかります。愛とは、私たちを苦しめるあらゆる分離を超えていくための、聖なる橋なのです。
私たちの苦しみの根源は、世界を二つに分けてしまう心(二元性)にあります。ヨガの言葉で言えば、アヴィディヤー(無明)がもたらす分離感です。「私」と「あなた」、「内側」と「外側」、「好き」と「嫌い」、「善」と「悪」。この鋭い刃物で世界を切り刻み、自分自身を孤立した存在だと信じ込むこと。そこから、執着や嫌悪、恐れといったあらゆる苦悩が生まれます。私たちは、分離した「私」を守るために壁を築き、他者を脅威と見なし、欠けているものを外側に探し求め続けるのです。
愛は、この強固な壁を内側から溶かす、不可思議な力を持っています。誰かを深く愛する時、何が起きるでしょうか。私たちは相手の喜びを自分の喜びとして感じ、相手の痛みを自分の痛みとして感じ始めます。「私」と「あなた」の境界線は曖昧になり、相手の中に自分自身の一部を見出し、自分の中に相手が存在していることに気づくのです。それは、閉ざされた個室の窓が開き、外の光と風が流れ込んでくるような体験です。
この体験は、インドの不二一元論(アドヴァイタ・ヴェーダーンタ)が説く「梵我一如(ぼんがいちにょ)」という深遠な真理を、私たちに垣間見せてくれます。梵我一如とは、この宇宙の根本原理であるブラフマン(梵)と、個人の本質であるアートマン(我)は、本来一つであるという教えです。つまり、あなたは孤立した波ではなく、広大な海そのものである、ということです。愛とは、この忘れ去られた真実を、論理ではなく、全身の細胞が震えるような実感として思い出させてくれるプロセスなのです。
それは、まるで量子力学の世界で語られる「量子もつれ」のようです。一度ペアになった二つの粒子は、どれだけ離れていても、片方の状態が決まると瞬時にもう片方の状態も決まるという不思議な相関関係を持ちます。まるで、分離しているように見えて、根源では分かちがたく繋がっている。愛とは、この宇宙に遍満する根源的な繋がりを、人間が体験できる形に翻訳したものなのかもしれません。
この橋を渡るための具体的な実践が、慈悲の瞑想(メッター瞑想)です。まずは自分自身に向けて、「私が幸せでありますように、私が健やかでありますように」と慈しみの言葉を送ります。次に、大切な人、友人、そして нейтраルな人、さらには苦手な人へと、その輪を広げていく。最終的には、生きとし生けるものすべてに、その愛のエネルギーを送ります。この実践は、好き/嫌いという二元的な判断を超え、すべての存在に対する無条件の愛を育む稽古です。それは、分離の壁を少しずつ、しかし確実に溶かしていくのです。
あなたが誰かに愛を感じる時、それは単なる個人的な感情ではありません。それは、宇宙があなたという通路を通して、自らが一つであることを思い出そうとしている瞬間です。愛とは、分離という幻想の眠りから覚め、すべてが繋がっているという真実(ワンネス)へと私たちを架け渡す、最も温かく、最も力強い光の橋なのです。


