私たちの日常は、言葉や表情、行為といった目に見えるコミュニケーションだけでなく、目に見えないエネルギーの交換によっても成り立っています。ヨガの言葉でいう「プラーナ」、東洋思想でいう「気」の交流です。その中で、どういうわけか一緒にいるとどっと疲れたり、気分が落ち込んだり、活力を奪われたように感じる相手と出会うことがあります。現代的な俗語では、こうした相手を「エネルギーバンパイア」と呼ぶことがあるかもしれません。
しかし、ヨガ哲学者の視点からこの現象を捉え直すならば、特定の「悪い他者」がいて、その人が一方的にあなたのエネルギーを吸い取っている、という単純な二元論から一歩退いてみることが肝要です。むしろ、それはあなたと相手との間で、エネルギーの不均衡な交換関係が「成立してしまっている」状態と見るべきでしょう。なぜ、その関係性が成立するのか。その「場」が生まれる背景には、あなた自身のエネルギーの状態や心の「構え」もまた、深く関わっているのです。仏教の「縁起」の思想が示すように、あらゆる関係性は相互依存の中にあり、相手はあなたの内面を映し出す鏡にほかなりません。
では、この不均衡なエネルギーの流れから、どのようにして自分自身という聖域を守り、健やかな状態を保てばよいのでしょうか。それは、他者を非難し、壁を作って拒絶することとは少し異なります。むしろ、自己の内なる力を満たし、しなやかな境界線を築くという、より成熟したアプローチが求められます。
第一に、最も重要なのは「気づき」です。エネルギーを奪われている状態に、身体と心で気づくこと。多くの場合、私たちは頭で「この人は苦手だ」と考える前に、身体が先に反応しています。その人と会った後の奇妙な疲労感、頭痛、肩の重さ。あるいは、理由もなくイライラしたり、自己嫌悪に陥ったりする感情の波。これらのサインは、あなたのエネルギーフィールドが影響を受けているという、内なる賢者からのメッセージです。この微細な感覚に気づく感受性を養うこと、それがすべての始まりとなります。
第二に、健全な「境界線」を設定する勇気です。これはヨガの八支則におけるヤマ(禁戒)の実践そのものです。自分自身を傷つけない「アヒンサー(非暴力)」のために、あなたは自分を守る権利があります。そして、自分の真実に誠実である「サティヤ(正直)」のために、無理に相手に合わせたり、心地よくない誘いに応じたりする必要はないのです。物理的に距離を置く、会話を穏やかに切り上げる、「今はできません」と丁寧に、しかし明確に断る。これは相手を攻撃する行為ではなく、自分自身の神聖な空間を尊重する、自己愛の表明に他なりません。
第三に、あなた自身のエネルギーフィールドを強化することです。コップの水が満ち溢れていれば、誰かが少し飲んだとしても、すぐに枯渇することはありません。日々のアーサナの実践は身体のエネルギーラインを整え、プラーナーヤーマ(呼吸法)は生命エネルギーそのものであるプラーナを豊かにします。瞑想は、あなたの意識を中心軸に据え置き、他者の感情の渦に巻き込まれない静かな力を養います。特に、自分自身が光の繭や卵のようなエネルギーフィールドに優しく包まれていると視覚化(ヴィジュアライゼーション)する練習は有効です。これは単なる空想ではなく、自己のエネルギー場に対する意識的な意図(サンカルパ)であり、あなたのオーラを強くしなやかに保つ助けとなります。
最後に、慈悲の心を育むことです。エネルギーを他者から奪ってしまう人は、その人自身が深刻なエネルギー枯渇の状態にある、傷ついた存在なのかもしれません。相手を「バンパイア」と断罪するのではなく、その人の内なる欠乏に思いを馳せ、慈悲の瞑想(メッター瞑想)を通じて、まず自分自身に、そして相手にも光と癒しを送るのです。これは相手を許すというよりも、あなた自身をその不均衡な関係性の束縛から解放し、より高い視点から状況を眺めるための精神的な稽古となります。
最強の防御とは、鎧を固くすることではありません。それは、あなた自身の内なる泉から愛と活力が尽きることなく湧き上がり、その光と温かさが自然に周囲へと広がっていく状態そのものです。あなたがあなた自身で満たされている時、他者にエネルギーを奪われる「隙」は、自ずと消えていくのです。


