サティヤ(正直)の教えは、私たちに真実を語ることの重要性を説きます。しかし、その教えの奥深くには、それと対をなす、もう一つの深遠な真理が隠されています。それは、「沈黙」の価値です。古今東西の賢者たちは、雄弁さ以上に、沈黙の力を讃えてきました。「雄弁は銀、沈黙は金」という西洋の諺や、老子の「知る者は言わず、言う者は知らず」という言葉は、その象徴です。
ヨガの伝統においても、沈黙は「マウナ(Mauna)」と呼ばれ、重要な霊的修行の一つと見なされてきました。それは単に口を閉ざすという消極的な行為ではありません。マウナは、外側に向かって流れ出ていく生命エネルギー(プラーナ)を内側にとどめ、自己の深い層と繋がるための、極めて積極的でパワフルな実践なのです。
私たちの日常は、いかに多くの言葉で満ち溢れていることでしょう。絶え間ないおしゃべり、SNSでの発信、会議での議論。多くの場合、その言葉は内なる静寂からではなく、不安や退屈、自己顕示欲から発せられています。私たちは沈黙が怖いが故に、意味のない言葉でその空間を埋めようとしてしまうのです。しかし、そうして浪費された言葉は、その重みを失い、誰の心にも響くことなく霧散していきます。
真にサティヤを生きる者は、語るべき時と、黙すべき時を鋭く見極める知恵を持っています。
語るべき時とは、その言葉がアヒンサー(非暴力)の精神に根ざし、世界に調和や愛、光をもたらす時です。誰かを励まし、力づけるための言葉。不正義に対して、勇気をもって発せられる言葉。感謝や愛を伝える、心からの言葉。このような言葉は、真実の力を宿し、人々の心を変容させる力を持つでしょう。
一方で、黙すべき時もまた、数多く存在します。ゴシップや噂話、他者の悪口が交わされる場では、沈黙は最も雄弁な抵抗となります。自分の知識をひけらかしたいだけのエゴから言葉を発しそうになった時、沈黙は謙虚さの美徳を教えてくれます。相手が感情的になっていて、いかなる言葉も受け入れられないであろう時、沈黙は嵐が過ぎ去るのを待つ賢明な避難場所となります。そして、仏陀が形而上学的な問いに沈黙で答えた「黙擯(もくひん)」の逸話が示すように、言葉では到底表現しきれない深遠な真理の前では、沈黙こそが最も敬虔な応答となるのです。
引き寄せの法則との関わりで言えば、沈黙は、宇宙からのインスピレーションを受け取るための「受信アンテナ」を立てる行為に他なりません。私たちが常に言葉を発信し続けている状態では、宇宙が送ってくる微細なサインや、直感という名の内なる声をキャッチするための心の余白がありません。意図を宇宙に放った後は、静かにその応答を待つ時間が必要です。沈黙の中で、私たちの願いは熟成され、凝縮され、より実現化しやすい形へと整えられていくのです。
一日の中に、ほんの数分でも、意識的に沈黙する時間(マウナ)を取り入れてみませんか。通勤の電車の中、昼食後のひととき、眠りにつく前の静寂。その沈黙の中で、あなたは普段の喧騒の中では聞こえなかった、自分自身の本当の心の音を聞くことができるかもしれません。
言葉と沈黙は、音楽における音符と休符の関係に似ています。休符があるからこそ、メロディは美しく響くのです。あなたの言葉を、そしてあなたの沈黙を、黄金のように価値あるものに育てていきましょう。そのバランス感覚こそが、成熟した魂の証なのです。


