遥かなる古えより、インド亜大陸に深く根をおろし、独自の精神文化を育んできたジャイナ教。その教えの中心には、魂の完全なる解放、すなわちモークシャ(解脱)への希求があります。この究極の目標へと至る道は、しかしながら、一つではありません。ジャイナ教は、その道を歩む者たちに対し、二つの異なる、しかし深く結びついた生き方を提示しています。一つは、一切の世俗的な絆を断ち切り、解脱への最短経路をひたすらに歩む「僧侶(サードゥ/サードヴィー)」の道。そしてもう一つは、日々の暮らしの中で教えを実践し、徐々に魂を浄化していく「在家信者(シュラーヴァカ/シュラーヴィカー)」の道です。
これら二つの道は、一見すると対照的に映るかもしれません。しかし、両者は互いに支え合い、影響を与え合いながら、ジャイナ教という壮大な精神的伝統を形成してきました。本稿では、この僧侶と在家信者、それぞれの生き方、戒律、そして彼らがジャイナ教の中で果たす役割について、歴史的背景と哲学的思想を交えながら、深く考察してまいりましょう。
僧侶(サードゥ/サードヴィー):解脱への険しき道を歩む求道者
ジャイナ教における僧侶とは、文字通り、世俗の一切を捨て去った人々を指します。サードゥ(男性僧侶)とサードヴィー(女性僧侶)は、物質的な所有、家族や社会との絆、そして自己中心的な欲望から完全に離れることを誓います。これは、ジャイナ教の根本原理であるアヒンサー(非暴力)、アパリグラハ(無所有)、サティヤ(真実語)、アステーヤ(不盗)、ブラフマチャリヤ(純潔・禁欲)という「五つの大誓戒(マハーヴラタ)」を、その生涯を通じて徹底的に守り抜くことを意味します。
出家の儀式と覚悟
僧侶となるための出家の儀式は、人生における重大な転換点です。家族や財産との別れを象徴する儀礼を経て、彼らは新しい名前を与えられ、僧侶としての生活に入ります。特にディガンバラ派(空衣派)の男性僧侶は、一切の衣服を放棄し裸形で過ごすことが求められ、これは完全なる無所有と外界への無執着を象徴しています。一方、シュヴェーターンバラ派(白衣派)の僧侶は、質素な白い布を身にまとうことが許されますが、これもまた最低限の所有を示すものです。
厳格なる日常生活
僧侶の生活は、想像を絶するほど厳格です。彼らは定住の地を持たず、ヴィハーラと呼ばれる遊行を行いながら、托鉢によって日々の食事を得ます。食事は、生命を傷つけないよう細心の注意を払って調理された、純粋な植物性のものに限られます。歩行の際にも、誤って微細な生命を踏み殺さぬよう、孔雀の羽箒(ディガンバラ派の一部)や柔らかい布(シュヴェーターンバラ派)で足元を払いながら進みます。話す言葉にも注意を払い、虚偽や他者を傷つける言葉を避け、沈黙を守ることも少なくありません。
彼らの所有物は、托鉢のための鉢、水を濾すための布、経典、そして前述の箒など、生命維持と修行に最低限必要なものに限られます。夜間には灯りもつけず、書物を読むこともしません。これは、夜間に活動する虫などを誤って殺傷する可能性を避けるためです。
カヤクレーシャ(身体的苦行)とその意義
ジャイナ教の僧侶は、カヤクレーシャと呼ばれる身体的苦行を実践します。これは、断食、特定の姿勢を長時間保つこと、厳しい気候条件に耐えることなど、様々な形をとります。この苦行の目的は、身体的な欲望を克服し、精神力を高め、過去のカルマを焼却することにあります。それは単なる自己虐待ではなく、魂の浄化と解脱への道を早めるための、意識的な修練と位置づけられています。
チャトゥルマーサ(雨季の定住)
ただし、雨季の4ヶ月間(チャトゥルマーサ)は、僧侶たちも遊行を中断し、特定の場所に定住します。これは、雨季には地面に多くの虫や微生物が活動するため、移動による殺生の危険性が高まることを避けるためです。この期間、僧侶たちは集中的に瞑想、経典学習、そして在家信者への説法などを行います。
二大宗派における僧侶の違い
前述の通り、ディガンバラ派とシュヴェーターンバラ派では、僧侶の戒律や生活様式にいくつかの違いが見られます。最も顕著なのは衣服の有無ですが、他にも、女性の解脱の可能性(ディガンバラ派は女性の身体のままでは解脱できないとし、男性に生まれ変わる必要があると説く一方、シュヴェーターンバラ派は女性も解脱可能とする)、所有できる物品の種類や数などにも差異があります。しかし、五つの大誓戒を遵守するという根本的な姿勢は共通しています。
在家信者(シュラーヴァカ/シュラーヴィカー):世俗の中で灯を掲げる人々
ジャイナ教徒の大多数は、僧侶ではなく在家信者です。シュラーヴァカ(男性在家信者)とシュラーヴィカー(女性在家信者)は、社会生活を営みながら、可能な範囲でジャイナ教の教えを実践し、精神的な向上を目指します。彼らは、僧侶が守るマハーヴラタ(大誓戒)を緩和した「アヌヴラタ(小誓戒)」を遵守します。
アヌヴラタ(小誓戒)の実践
アヌヴラタは、日常生活の中でアヒンサー、サティヤ、アステーヤ、ブラフマチャリヤ、アパリグラハを実践するための指針です。
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アヒンサー(非暴力): 職業選択において、農業や屠殺業など、生命を直接的に傷つける可能性の高いものを避けます。商業や金融業に従事するジャイナ教徒が多いのは、このアヒンサーの原則が影響していると言われています。食事は厳格な菜食主義を貫き、根菜類など、収穫時に土中の微生物を傷つける可能性のあるものも避ける場合があります。
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サティヤ(真実語): 嘘をつかず、正直であることを心がけます。
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アステーヤ(不盗): 他人のものを盗まず、与えられていないものを取らないようにします。
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ブラフマチャリヤ(純潔・禁欲): 結婚関係における貞節を守り、過度な性的欲望を抑制します。
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アパリグラハ(無所有・非執着): 財産や物質的なものへの過度な執着を戒め、必要以上のものを所有しないように努めます。また、得た富の一部を慈善活動や教団への布施に用いることが奨励されます。
在家信者の宗教的実践
在家信者は、定期的に寺院を訪れ、ティールタンカラ(祖師)像への礼拝やプージャー(供養儀式)を行います。また、パリュシャナやマハーヴィーラ・ジャヤンティといった重要な祭りには、断食や特別な儀式に参加します。瞑想(サマーイカ)の実践や経典学習も、在家信者の重要な宗教活動です。特に、一定期間、食事や世俗的な活動を制限し、瞑想や自己省察に専念するポシャダと呼ばれる実践は、在家信者がより深い精神性を養う機会となります。
僧侶と在家信者の相互扶助関係
ジャイナ教のサンガ(教団・共同体)は、僧侶と在家信者の密接な相互関係によって成り立っています。僧侶は、在家信者に対して精神的な指導を行い、教義を説き、正しい生き方へと導きます。一方、在家信者は、托鉢による食事の提供、雨季の滞在場所の提供、経典の寄進など、物質的な側面で僧侶の修行生活を支えます。この互助関係は、ジャイナ教の伝統を維持し、発展させる上で不可欠なものです。
サッレーカナー(自発的な餓死による宗教的死)
在家信者の究極的な放棄の形として、サッレーカナー(サンターラーとも呼ばれる)があります。これは、老いや不治の病により、もはやジャイナ教徒としての義務を果たすことが困難になったと判断した場合、自発的に食事を断ち、瞑想のうちに死を迎えるという宗教的実践です。これは自殺とは異なり、カルマを浄化し、平穏な死を迎えるための、高度な精神的覚悟を伴う行為とされています。ただし、この実践は非常に厳格な条件下でのみ認められ、専門家の指導のもとに行われます。
二つの道、一つの目的地
僧侶の道は、解脱という山頂へ直登する険しい登山道に例えられるかもしれません。一方、在家信者の道は、山腹をゆっくりと、しかし着実に登っていく道と言えるでしょう。道のりは異なりますが、目指す頂は同じ、すなわちカルマの束縛からの完全なる解放です。
僧侶は、その徹底した非暴力と無所有の生き方によって、ジャイナ教の理想を体現し、在家信者にとっての精神的灯台となります。彼らの存在は、物質的な豊かさだけが幸福ではないこと、そして内面的な平安こそが真の価値であることを静かに教えてくれます。
一方、在家信者は、日々の生活の中で倫理的な実践を積み重ねることにより、社会全体にジャイナ教の価値観を広めていく役割を担います。彼らの正直さ、勤勉さ、そして慈善の精神は、ジャイナ教徒が社会的に高い評価を得てきた要因の一つと言えるでしょう。
現代社会において、ジャイナ教の僧侶と在家信者の生き方は、私たちに多くの示唆を与えてくれます。消費主義が蔓延し、環境破壊が進む現代において、アヒンサー(非暴力)とアパリグラハ(無所有)の精神は、より持続可能で調和のとれた生き方への道しるべとなるのではないでしょうか。
僧侶であれ、在家信者であれ、ジャイナ教徒の生き方の根底には、すべての生命への深い慈悲と、自己の魂を浄化しようとする真摯な努力があります。それは、外的な儀式や形式だけでなく、内面的な変容を重視する、東洋の叡智が生んだ深遠な精神的伝統の一つの姿なのです。この二つの異なる生き方は、ジャイナ教という織物を構成する縦糸と横糸のように、互いに絡み合いながら、美しくも力強い模様を描き出していると言えるでしょう。
ヨガの基本情報まとめの目次は以下よりご覧いただけます。


