ジャイナ教は、その悠久の歴史の中で、創始者マハーヴィーラの教えをいかに解釈し、実践していくかという問いと真摯に向き合い続けてきました。その過程で、教団内に異なる見解や実践様式が生まれ、やがて大きな二つの潮流へと分かれていったのです。それが、ディガンバラ派(Digambara、空衣派)とシュヴェーターンバラ派(Śvētāmbara、白衣派)と呼ばれる二大宗派であります。
この二つの宗派の存在は、単なる教義上の些細な違いから生じたものではありません。それは、解脱という究極の目標に至る道筋、修行のあり方、そして社会との関わり方といった、信仰生活の根幹に関わる深い思索と実践の積み重ねがもたらした、いわばジャイナ思想の豊穣さを示す一つの証左と言えるでしょう。本稿では、これら二大宗派がどのようにして成立し、どのような特徴を持ち、そしてジャイナ教全体の思想的景観にどのような彩りを与えているのかを、歴史的背景と思想的側面から深く考察してまいります。
もくじ.
宗派分裂の歴史的背景:必然としての多様化
マハーヴィーラが入滅されてから数世紀を経る中で、ジャイナ教団は徐々にその規模を拡大し、インド亜大陸の各地へと広まっていきました。地理的な広がりは、必然的に地域ごとの文化や環境の違いによる影響を受け、教義解釈や実践方法にも多様性が生まれる素地となりました。
伝承によれば、宗派分裂の直接的な契機は、紀元前4世紀頃にガンジス川中流域で発生したとされる大飢饉であると言われています。この飢饉を避けるため、一部のジャイナ教徒がシュラヴァナベルゴラを中心とする南インドへ移住しました。一方、北インドに残った教徒たちもおり、この地理的な隔絶と、それぞれの地で直面した困難な状況への対応の違いが、後の分裂に大きな影響を与えたと考えられます。
その後、紀元後1世紀頃、パータリプトラ(現在のパトナ)で教典結集のための会議が開かれましたが、この会議への参加を巡っても意見の対立が生じ、教団の分裂はより明確なものとなっていったのです。しかし、この分裂は一朝一夕に起こったものではなく、マハーヴィーラの教えに対する解釈の深化、修行における厳格さの度合い、そして出家者と在家信者の関係性など、様々な要因が複雑に絡み合いながら、長い時間をかけて形成されていったものと理解すべきでしょう。それは、生きた思想が時代や環境に適応し、多様な花を咲かせるための、ある種の必然的なプロセスであったのかもしれません。
ディガンバラ派(空衣派):無所有の極致を体現する者たち
「ディガンバラ」とは、サンスクリット語で「空(虚空、空間)を衣とする者」を意味します。その名の通り、ディガンバラ派の男性出家修行者は、一切の所有物を放棄する「アパリグラハ(無所有)」の誓いを徹底し、衣服さえも身にまとわない裸行を実践します。この裸行は、単なる奇異な習慣ではなく、物質的なものへの執着を完全に断ち切り、外界からの刺激を最小限にすることで、内なる魂の探求に専念するための極めて厳格な修行形態なのです。
ディガンバラ派の主な特徴と思想的背景を以下に示します。
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裸行(Nagna): アパリグラハの誓いの完全な実践と見なされます。衣服は身体を覆い隠し、外的要因から保護するものであり、それは同時に微細な執着や快適さへの依存を生む可能性があると考えます。裸であることは、恥の感情を超越し、自然な状態に回帰することを目指す精神の表れでもあります。
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女性の解脱に関する見解: ディガンバラ派は、女性は現在の生において解脱(モークシャ)することはできないと考えます。これは、女性の身体構造が裸行の実践に適さないこと、そして女性特有の生理現象などが、解脱に必要な完全な純粋性を妨げると解釈されるためです。女性は功徳を積むことで来世に男性として生まれ変わり、そこで解脱を目指すことができるとされます。この見解は、当時のインド社会における女性観や、修行における身体性の重視といった思想的背景を反映していると言えるでしょう。
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聖典観: マハーヴィーラの教えをまとめたとされる原典(アーンガ)は、時代の経過とともに散逸してしまったと考えます。そのため、後世の偉大なアーチャリヤ(導師)たちによって著された文献を重視し、それらを聖典として扱います。
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マハーヴィーラの偶像: ディガンバラ派の寺院に祀られるティールタンカラ(祖師)の像、特にマハーヴィーラの像は、一切の装飾を排し、裸形で瞑想する姿で表現されます。これは、完全な離欲と解脱の状態を象徴しています。
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所有物: 出家者は、孔雀の羽で作られた箒(ピンチー)と、水を入れるための木製の壺(カマンダル)のみを所有することが許されます。ピンチーは、歩く際に微小な生命を殺傷しないように道を掃き清めるために用いられ、アヒンサー(非暴力)の徹底した実践を示しています。
ディガンバラ派は、特に南インドのカルナータカ州やマハーラーシュトラ州、マディヤ・プラデーシュ州などに多くの信者を持ち、その厳格な修行の伝統を今日まで守り続けています。
シュヴェーターンバラ派(白衣派):社会との調和と実践可能性を重んじる者たち
「シュヴェーターンバラ」とは、サンスクリット語で「白い衣をまとう者」を意味します。その名の通り、シュヴェーターンバラ派の出家修行者は、清浄さを象徴する白い布で作られた簡素な衣を身にまといます。彼らは、ディガンバラ派ほど所有の放棄を極端に解釈せず、社会生活との調和の中で、より実践可能な形でマハーヴィーラの教えを守ることを重視します。
シュヴェーターンバラ派の主な特徴と思想的背景は以下の通りです。
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白衣の着用: 白い衣の着用は、社会的な規範への配慮や、気候条件への適応、そして修行生活における最低限の必要性を認める立場を示しています。彼らは、衣服をまとうこと自体が解脱の妨げになるとは考えません。むしろ、社会の中で教えを広めるためには、一定の社会性は必要であると捉える傾向があります。
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女性の解脱に関する見解: シュヴェーターンバラ派は、女性も現在の生において解脱することが可能であると考えます。魂の本質に性差はなく、マハーヴィーラの教えを実践し、カルマを滅尽すれば、性別に関わらず誰でも解脱に至ることができると主張します。19番目のティールタンカラとされるマッリナータを女性と見なす伝承も、この立場を裏付けています。この見解は、より包括的で平等な思想的立場を示していると言えるでしょう。
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聖典観: マハーヴィーラの教えをまとめた原典の一部は、口伝によって正確に伝えられ、後に文字化されたと考えています。そのため、45部からなるアーガマ経典群を最も権威ある聖典として認めています。
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マハーヴィーラの偶像: シュヴェーターンバラ派の寺院に祀られるティールタンカラの像は、しばしば目が大きく見開かれ、宝石などで装飾されていることがあります。これは、ティールタンカラの慈悲や智慧、そして彼らが到達した栄光ある状態を表現していると解釈されます。
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所有物: 白い衣の他に、托鉢のための鉢、筆記用具、経典などを所有することが許されます。また、口を覆うための布(ムハパッティ)を携帯し、話す際に唾液が飛び散って微小な生命を傷つけたり、空気中の生命体を吸い込んだりしないように配慮します。
シュヴェーターンバラ派は、主にインド西部のグジャラート州やラージャスターン州に多くの信者を持ち、活発な商業活動を行う在家信者に支えられながら、教育や社会奉仕活動にも積極的に取り組んでいます。
両派の相違点と共通性:多様性の中の統一
ディガンバラ派とシュヴェーターンバラ派は、上記のように服装、女性の解脱、聖典観、偶像崇拝の様式などにおいて明確な違いを持っています。これらの違いは、しばしば表面的な対立点として捉えられがちですが、その根底には、マハーヴィーラの教えに対する真摯な探求と、それをいかに実践に移すかという深い苦悩と工夫がありました。
例えば、服装の違いは、単に衣をまとうか否かという問題ではなく、「無所有」という根本的な誓いをどの程度まで徹底するか、そして修行者が社会とどのように関わるべきかという思想的立場の違いを反映しています。ディガンバラ派は個人の解脱のための徹底した離欲を追求し、シュヴェーターンバラ派は社会との調和の中で教えを実践し広める道を模索したと言えるでしょう。
女性の解脱に関する見解の違いは、生物学的な性差を超えた魂の平等性という普遍的な問いに対して、それぞれの宗派が当時の社会状況や思想的背景の中で出した応答です。この問題は、現代においてもジェンダー論の観点から非常に興味深い考察対象となります。
しかし、これらの相違点の背後には、両派が共有するジャイナ教の核心的な教義が存在することを忘れてはなりません。
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アヒンサー(非暴力)、サティヤ(真実語)、アステーヤ(不盗)、ブラフマチャリヤ(不淫)、アパリグラハ(無所有)という五大誓戒の重要性は、両派ともに固く守られています。
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**カルマの法則、輪廻転生、そして魂の解脱(モークシャ)**という目標も完全に共有されています。
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マハーヴィーラを最後のティールタンカラとして最高の尊敬を捧げる点も共通しています。
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**アネーカーンタヴァーダ(非絶対論・多面性真理観)やスィヤードヴァーダ(相対的判断)**といったジャイナ哲学の根幹をなす認識論も、両派に受け継がれています。
これらの共通基盤があるからこそ、両派は互いの存在を認め合い、時には協力しながら、ジャイナ教という大きな精神的伝統を今日まで守り伝えてきたのです。
現代における両派とジャイナ教の未来
現代において、ディガンバラ派とシュヴェーターンバラ派は、それぞれの伝統と教義を守りながら、インド社会のみならず、世界に向けてジャイナ教の教えを発信しています。両派の間には、歴史的な経緯からくる一定の距離感や、儀礼上の細かな違いによる交流の難しさも存在することは事実です。しかし、それは敵対的なものではなく、むしろ互いの独自性を尊重し合う形での共存と言えるでしょう。
近年では、ジャイナ教徒全体の連帯を促す動きや、共通の課題に取り組むための対話も行われています。環境問題、動物愛護、平和主義といった現代社会が直面する課題に対して、アヒンサーを中心とするジャイナ教の教えは非常に重要な示唆を与える可能性を秘めています。宗派の違いを超えて、この普遍的なメッセージを世界に届けることが、現代のジャイナ教徒に課せられた使命の一つと言えるかもしれません。
結論として、ディガンバラ派とシュヴェーターンバラ派という二大宗派の存在は、ジャイナ教の教えが持つ解釈の幅広さと、それが多様な文化や時代に適応してきた歴史の証です。外面的な違いに目を向けるだけでなく、その奥に流れる共通の精神的探求、すなわち魂の浄化と解脱への渇望を理解することが、この複雑で深遠な精神的伝統を多角的に捉える鍵となります。これらの宗派の違いを知ることは、ジャイナ教という一つの大きな河が、いかに多くの支流を持ちながら、一つの海へと向かって流れているかを私たちに教えてくれるのです。
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