ジャイナ教の精神的骨格を成すのは、魂の解放(モークシャ)への揺るぎない希求です。その長く険しい道のりにおいて、日々の行為がいかに魂に影響を与えるかという洞察は、極めて重要な位置を占めます。魂を覆い隠し、輪廻のサイクルに縛り付けるカルマの流入を最小限に食い止め、既に蓄積されたカルマを浄化していく。この浄化の過程で、指針となるのが「五つの大誓願(マハーヴラタ)」、すなわち五戒です。これらは単に「してはならないこと」を列挙した禁止事項のリストではなく、むしろ、より自覚的で、より純粋な存在へと自己を錬磨していくための積極的な倫理的実践と言えるでしょう。
もくじ.
魂の純粋性を守るための大いなる誓い
ジャイナ教において、僧侶(サードゥやサードゥヴィ)は、解脱への道をよりストイックに歩むため、これらの五戒を最も厳格な形で遵守することが求められます。これに対し、在家信者(シュラーヴァカやシュラーヴィカー)は、日常生活を営みながらも、これらの戒律の精神を可能な範囲で実践する「小誓願(アヌヴラタ)」を守ります。アヌヴラタはマハーヴラタの精神を汲みつつ、その適用範囲や厳格さを現実生活に合わせて調整したものですが、目指す方向性は同じく、魂の浄化と解放にあります。
この五戒の根底には、宇宙に存在するすべての生命(ジーヴァ)に対する深い敬意と、自己の行為が他者や環境に与える影響への鋭敏な感受性があります。それは、自己と他者、そして自己と世界が分かちがたく結びついているという、東洋思想に共通する深遠な宇宙観の表れとも言えるでしょう。
第一の戒:アヒンサー(Ahiṃsā) – 揺るぎなき非暴力、不殺生の誓い
ジャイナ教の倫理体系において、アヒンサーは最高位の徳目(パラモー・ダルマ)とされ、他のすべての戒律の基盤となります。これは単に物理的な暴力を振るわない、殺生をしないというレベルに留まりません。ジャイナ教のアヒンサーは、思考(マナス)、言葉(ヴァチャナ)、行為(カーヤ)の三つのレベルすべてにおいて、いかなる生命に対しても害意を抱かず、苦痛を与えないことを徹底します。
この「生命」の範囲は、人間や動物だけでなく、植物、さらには目に見えない微細な生物(ニゴーダ)にまで及びます。そのため、ジャイナ教の僧侶たちは、歩行中に誤って虫を踏み殺さないよう細心の注意を払い、呼吸する際に微細な生物を吸い込まないよう口を布で覆い、濾過した水しか飲まないといった厳格な実践を行います。これは、現代のエコロジー思想や動物倫理の先駆けとも言える、生命への徹底した配慮の現れです。
現代社会において、私たちは日々の生活の中で、意識的・無意識的に多くの暴力を内包しています。食肉文化、環境破壊、搾取的な経済活動、そして言葉による暴力や精神的な抑圧。アヒンサーの実践は、こうした現代社会の構造的な暴力性に対する根源的な問いかけであり、より平和で調和のとれた世界を実現するための倫理的基盤を提供してくれるでしょう。それは、単に「しない」という消極的な態度ではなく、あらゆる生命に対する積極的な慈悲と共感の表明なのです。
第二の戒:サティヤ(Satya) – 真実を語り、偽りを遠ざける誓い
サティヤは、嘘をつかないこと、真実を語ることと定義されます。しかし、ジャイナ教におけるサティヤは、単なる言葉の表面的な真実性だけを問題にするのではありません。それは、アヒンサーの精神と深く結びついています。つまり、語られる言葉が真実であっても、それが他者を不必要に傷つけたり、害意を伴ったりするものであれば、それはサティヤの精神に反すると考えられます。
したがって、ジャイナ教徒は、言葉を発する前に、それが①真実であり、②有益であり、③他者を傷つけないものであるか、という三つのフィルターを通して熟考することが求められます。このプロセスは、現代社会におけるコミュニケーションのあり方、特にソーシャルメディアなどで安易に言葉が拡散され、誤解や誹謗中傷が生み出される現状に対して、重要な示唆を与えてくれるでしょう。
また、サティヤは、自己欺瞞からの解放をも意味します。自分自身に対して正直であること、自分の動機や感情を偽りなく見つめることは、精神的な成長にとって不可欠です。言葉だけでなく、思考や行為においても一貫して誠実であること。これがサティヤの目指す境地です。
第三の戒:アステーヤ(Asteya) – 与えられていないものを取らない、不盗の誓い
アステーヤは、一般的に「盗まないこと」と理解されます。もちろん、他人の財物を窃取することは明確に禁じられています。しかし、ジャイナ教のアステーヤは、より広範な意味合いを持ちます。それは、所有者の明確な許可なく、与えられていないものを自分のものとしない、という原則です。
これには、物質的なものだけでなく、他人の時間、アイデア、評判、さらには自然資源なども含まれ得ると解釈できます。例えば、約束の時間を守らないことは他人の時間を盗む行為であり、他人の研究成果を無断で借用することは知的財産を盗む行為と見なせるかもしれません。
アステーヤの根底には、貪欲さや過度な所有欲からの解放というテーマがあります。他者のものを欲しがる心、自分に与えられていないものを渇望する心が、盗みという行為を生み出すのです。したがって、アステーヤの実践は、自己の欲望を制御し、足るを知る精神を養うことと深く結びついています。現代の消費社会において、私たちは常に新しいものを求め、所有することに価値を見出しがちですが、アステーヤの教えは、そのような価値観に疑問を投げかけ、より精神的な豊かさを追求する道を示唆しています。
第四の戒:ブラフマチャリヤ(Brahmacarya) – 感覚を制御し、貞潔を守る誓い
ブラフマチャリヤは、一般に「禁欲」や「貞潔」と訳されます。ジャイナ教の僧侶にとっては、あらゆる性的な活動を完全に断つことを意味します。一方、在家信者にとっては、配偶者以外との性的な関係を持たないこと、そして配偶者間においても節度ある関係を保つことと解釈されます。
しかし、ブラフマチャリヤの本質は、単に性欲を抑制することに限定されません。それは、あらゆる感覚的な快楽への過度な耽溺を避け、心を清浄に保ち、精神的なエネルギーを解脱というより高次の目標へと振り向けることを目指す、より広範な自己制御の実践です。
目や耳、鼻、舌、皮膚といった五感を通して入ってくる刺激に振り回されることなく、心の平静を保つ。これは、情報過多で常に感覚的な刺激に満ちている現代社会において、非常に困難であると同時に、極めて重要な実践と言えるでしょう。ブラフマチャリヤは、感覚的な欲望の奴隷となるのではなく、自己の主人となるための道を示しています。
第五の戒:アパリグラハ(Aparigraha) – 所有への執着を手放す、不所有・無執着の誓い
アパリグラハは、「不所有」あるいは「無執着」と訳され、物質的な所有物に対する執着を手放すことを意味します。ジャイナ教の僧侶は、生活に必要な最低限のもの以外、一切の所有を放棄します。ディガンバラ派の僧侶に至っては、衣服すらまとわず、完全な無所有を実践することで知られています。
在家信者にとっては、過度な富の蓄積を避け、所有物への執着を減らし、必要以上のものを求めないことが求められます。これは、単に物を少なく持つというミニマリズム的な生活様式に留まらず、精神的な執着からの解放をも目指します。物質だけでなく、地位、名声、人間関係、さらには自分自身の身体や意見に対する執着も、アパリグラハの対象となり得ます。
所有することは、しばしば不安や束縛を生み出します。失うことへの恐れ、より多くを求める渇望、他者との比較。アパリグラハの実践は、こうした執着から心を解放し、真の自由と心の平安をもたらすことを目指します。現代社会は、所有すること、消費することを奨励する傾向にありますが、アパリグラハの教えは、そのような価値観とは異なる、より持続可能で精神的に満たされた生き方の可能性を示唆しています。それは、所有の量ではなく、存在の質に価値を見出す生き方です。
五戒の実践 – 日常における意識的な選択の連続
ジャイナ教の五戒は、それぞれ独立しているように見えて、実は深く相互に関連しあっています。例えば、アヒンサーの精神がなければ、真実を語るサティヤも、他者のものを尊重するアステーヤも、感覚を制御するブラフマチャリヤも、執着を手放すアパリグラハも、その本質を見失ってしまうでしょう。
これらの戒律を日常生活の中で実践することは、決して容易なことではありません。それは、絶え間ない自己観察と、意識的な選択の連続を要求します。しかし、その困難さの中にこそ、自己を鍛え、魂を磨き、より高い意識へと至る成長の機会が潜んでいるのです。
結論:五戒が照らし出す、より善き生への道筋
ジャイナ教の五戒は、魂の解放という究極の目標へと向かうジャイナ教徒にとって、暗闇を照らす灯台であり、道を踏み外さないための確かな羅針盤です。しかし、その教えは、ジャイナ教徒に限らず、現代を生きるすべての人々にとって、倫理的な生き方とは何か、人間としていかにしてより善く生きるべきかという根源的な問いに対する、深い洞察と実践的な指針を与えてくれます。
アヒンサー、サティヤ、アステーヤ、ブラフマチャリヤ、アパリグラハ。これらの古の智慧は、自己と他者、そして私たちが生きるこの世界全体との調和を求め、より平和で、より公正で、より慈愛に満ちた社会を築くための、時代を超えた普遍的なメッセージを私たちに投げかけているのです。それは、自己の内なる声に耳を澄ませ、日々の選択を通じて、より意識的で責任ある生き方を志向するすべての人々への、静かで力強い呼びかけと言えるでしょう。
ヨガの基本情報まとめの目次は以下よりご覧いただけます。


