私たちの頭の中には、目に見えない監督官が住んでいます。「もっと努力すべきだ」「時間を無駄にしてはいけない」「親の期待に応えるべきだ」「良いヨギは毎日練習すべきだ」。この「~べき」「~せねばならない」という声は、私たちを絶えず駆り立て、評価し、そして裁きます。この声に従う時、私たちの行動は「義務感」という重い鎖に繋がれ、本来そこにあるはずの生命の躍動、プラーナ(生命エネルギー)は静かに消耗していくのです。
この「べき」という思考の多くは、本来の自分自身の声ではありません。それは、私たちが成長の過程で、親、教師、社会といった外部から無意識のうちに取り込んできた価値観の集合体です。ヨガ哲学では、このような過去の経験から作られた潜在的な心の刻印を「サンスカーラ」と呼びます。私たちは、このサンスカーラによって形成された色眼鏡を通して世界を見て、自動的に反応しているのです。「べき」思考は、その最も代表的な現れと言えるでしょう。
「べき」に突き動かされる行動は、心の三つの性質(グナ)のうち、「ラジャス(激動)」のエネルギーに支配されています。そこには緊張、焦り、そして「やらされている」という受動的な苦しみが伴います。義務感から行うヨガの練習は、身体を痛めつけ、呼吸を浅くするかもしれません。義務感から行う仕事は、創造性を奪い、やがて燃え尽き症候群へと繋がるでしょう。それは持続可能なエネルギーではないのです。
これに対して、私たちの内側から湧き上がる「~したい」「~することが歓びだ」という声に従う行動は、「サットヴァ(純粋性、調和)」のエネルギーに満ちています。そこには軽やかさ、楽しさ、そして生命そのものの輝きがあります。サットヴァな動機から行うヨガの練習は、心と身体を解放し、深い静けさをもたらします。歓びから行う仕事は、遊びのように創造的で、エネルギーは消耗するどころか、ますます湧き上がってくるのです。
では、どうすればこの重い「べき」の鎖から自由になれるのでしょうか。第一歩は、やはり「気づき」です。自分が「~べきだ」と考えている瞬間に、ハッと気づくこと。そして、その声に問いかけるのです。「この『べき』は、本当に私の心の底からの声だろうか? これは誰の声なのだろう?」と。これは、自分自身に嘘をつかないという「サティヤ(正直)」の実践です。
次に、その「べき」を、主体的な「選択」の言葉に置き換えてみるのです。「朝、早く起きるべきだ」を、「静かな朝の時間に自分と向き合いたいから、早く起きることを選ぶ」と言い換えてみる。もし、この置き換えに違和感がある、心が抵抗するのであれば、その「べき」は今のあなたにとって本当に必要なことではないのかもしれません。それを潔く手放す勇気もまた、自分自身への優しさ(アヒンサー)です。
この精神は、「カルマヨガ(行為のヨガ)」の神髄にも通じます。カルマヨガとは、行為の結果(賞賛、報酬、あるいは自己満足)への執着を手放し、行為そのものに完全に没入すること。義務感は常に行為の先にある「結果」を気にしていますが、歓びは「今、ここ」での行為そのものの中に充足を見出すのです。
あなたの日常を、「Have to(すべきこと)」のリストから、「Want to(したいこと)」のリストへと翻訳し直してみてください。「皿を洗うべき」ではなく、「清潔で心地よい空間で過ごしたいから、皿を洗う」へ。その小さな意識の転換が、退屈な義務を、自分自身と世界を慈しむための創造的なダンスへと変容させます。歓びを羅針盤として生きる時、あなたは自分自身の本質的な役割(ダルマ)と調和し、宇宙からのサポートの流れに乗ることができるでしょう。


