3.3.1 ヤマ:禁戒 – 社会生活における倫理

ヨガを学ぶ

ヨーガの旅は、どこから始まるのでしょうか。多くの人は、静かなスタジオでマットを広げ、心地よい音楽の中で身体を動かす瞬間を思い浮かべるかもしれません。しかし、賢者パタンジャリが編纂したヨーガの根本経典『ヨーガ・スートラ』が示す道は、それよりもずっと手前、私たちの日常の、ごくありふれた風景から始まります。他者と出会い、言葉を交わし、関わり合う、その社会的な営みの中にこそ、ヨーガの真髄へと至る最初の扉が隠されているのです。

その扉の鍵こそ、ヨーガ八支則(アシュターンガ・ヨーガ)の第一段階に置かれた「ヤマ(Yama)」です。日本語では「禁戒」と訳されることが多く、その言葉の響きから「~してはならない」という禁止事項のリストのような、少し堅苦しい印象を受けるかもしれません。しかし、ヤマの本質は、私たちを縛るための窮屈な戒律ではありません。むしろ、それは私たちの心のエネルギーが、無意識のうちに外界へと漏れ出し、浪費されてしまうのを防ぐための、賢明で実践的なガイドラインなのです。

ヤマを実践することは、内なる庭を耕すための、最初の大切な作業に似ています。雑草を取り除き、土を柔らかくし、栄養を与えることで、初めて美しい花々が咲き誇るための土台が整うように、ヤマという倫理的な基盤を築くことによって、私たちの心は静けさを取り戻し、後続のアーサナ(坐法)やプラーナーヤーマ(呼吸法)、そしてディヤーナ(瞑想)といった、より深いヨーガの実践が実り多いものとなるのです。それは、他者との関わり方を見つめ直すことを通して、最終的に自分自身の内側へと深く入っていくための準備運動に他なりません。

この章では、ヤマを構成する五つの柱、すなわちアヒンサー(非暴力)、サティヤ(正直)、アスティーヤ(不盗)、ブラフマチャリヤ(禁欲)、そしてアパリグラハ(不貪)について、一つひとつ丁寧に、その深遠な意味を探求していきましょう。古代の叡智が、現代を生きる私たちの日常をどのように照らし、より自由で調和に満ちた生き方へと導いてくれるのか、その可能性を感じ取っていただければ幸いです。

 

アヒンサー(Ahiṃsā):非暴力・不殺生 – すべての存在への愛と敬意

ヤマの五つの柱の中で、最も根源的で、他のすべての教えの礎となるのが「アヒンサー」です。アヒンサーとは、サンスクリット語で「暴力」を意味する「ヒンサー(hiṃsā)」に否定の接頭辞「ア(a)」がついた言葉で、「非暴力」「不殺生」と訳されます。しかし、その意味は、単に物理的に他者を殴ったり、生き物を殺したりしない、という次元に留まるものではありません。アヒンサーは、私たちの思考、言葉、そして行動のすべてに浸透すべき、包括的な生命への敬意のあり方を示しています。

この思想の源流は古く、特に同時代に生まれたジャイナ教や仏教において、中心的な教義として徹底されました。ジャイナ教では、目に見えない微生物さえも傷つけないよう、道を歩くときには箒で地面を掃き、布で口を覆うほどの徹底したアヒンサーが実践されます。一方、ヴェーダの伝統の中では、神々への儀式(ヤグニャ)において動物の犠牲が捧げられる側面もありました。その中でヨーガがアヒンサーを第一の柱として掲げたことは、儀式的な形式よりも、個人の内面的な心の状態と、生きとし生けるものすべてとの調和を重視する方向へと、思想が深化していったことを示唆しています。

アヒンサーは、主に三つのレベルで理解することができます。

第一に**「身体的アヒンサー」**。これは最も分かりやすい形で、他者や他の生命に対して物理的な危害を加えないことです。これには、人間だけでなく、動物や植物、さらには自然環境全体への配慮も含まれます。

第二に**「言語的アヒンサー」**。言葉は、時に物理的な暴力以上の深い傷を相手の心に残すことがあります。批判、中傷、噂話、皮肉、冷たい言葉、相手を操作しようとする言葉。これらすべてが「ヒンサー(暴力)」です。ヨーガの実践者は、自らの口から発せられる言葉の一つひとつに意識的になり、それが他者を傷つけるものではなく、むしろ癒しや励ましを与えるものであるよう努めます。

第三に、最も微細で根源的なのが**「精神的アヒンサー」**です。心の中で他者に対して抱く、怒り、憎しみ、嫉妬、軽蔑、復讐心。これらの否定的な感情もまた、暴力の一形態です。たとえ行動や言葉に出さなくとも、心の中で暴力を育てている限り、私たちの内なる平和は訪れません。その暴力的な思考は、まず自分自身の心を蝕んでいくからです。

そして、忘れてはならないのが**「自己へのアヒンサー」**です。私たちはしばしば、他人に対してよりも自分自身に対して、より厳しい暴力を振るいがちです。無理なアーサナで身体を痛めつけること、過度なダイエットや不摂生で健康を損なうこと、自分を責め、自己否定の言葉を内側で繰り返すこと。これらもすべて、アヒンサーに反する行為です。自分自身を愛し、尊重し、慈しむこと。それができて初めて、私たちは真に他者を愛し、尊重することができるのです。

現代社会においてアヒンサーを実践することは、日々の選択の中にあります。何を食べるか(菜食主義やヴィーガニズムは、アヒンサーの現代的な実践の一形態と言えるでしょう)、何を買うか(環境や労働者に配慮して作られた製品を選ぶ)、どのようにコミュニケーションをとるか(SNSでの安易な批判や誹謗中傷に加担しない)。アヒンサーは、すべての存在が相互につながり合っているという宇宙的な真理を、私たちの日常に映し出す鏡なのです。他の四つのヤマは、すべてこのアヒンサーという大地の上に築かれます。

 

サティヤ(Satya):正直・真実 – 言葉と心と思考の一致

アヒンサーという土台の上に築かれる第二の柱が「サティヤ」です。サティヤは「正直」「真実」「誠実」と訳されます。その語源は、サンスクリット語で「存在」「実在」を意味する「サット(Sat)」にあり、サティヤとは単に嘘をつかないということ以上に、「ありのままの真実、存在するがままの状態」に即して生きることを意味します。ウパニシャッドにおいても「真理は勝利する(Satyam eva jayate)」という言葉が示すように、真理は宇宙の根源的な秩序そのものと考えられていました。

サティヤの実践は、まず第一に、事実として嘘をつかない、ごまかさない、誇張しないことです。しかし、ヨーガにおけるサティヤは、それよりも深い内面的な誠実さを要求します。それは、自分の思考、言葉、そして行動を一致させることです。心ではAと思っているのに、口ではBと言い、行動はCをとる。このような不一致は、私たちの内なるエネルギーを分裂させ、混乱とストレスを生み出します。サティヤとは、この分裂した自己を統合し、内的な調和を取り戻すプロセスなのです。

ここで極めて重要になるのが、第一の柱であるアヒンサーとの関係性です。インドの聖典には、こんな教えがあります。「真実を語りなさい。心地よい真実を語りなさい。しかし、不快な真実を語ってはならない。そして、心地よいからといって、偽りを語ってもならない」。これは、サティヤが常にアヒンサーというフィルターを通して実践されるべきであることを示しています。

例えば、ある人の服装が似合っていないと感じたとして、それを「似合っていませんね」と正直に伝えることは、サティヤの実践でしょうか。もしその言葉が相手を深く傷つけ、自信を失わせるのであれば、それはアヒンサーに反する「ヒンサー(暴力)」となり得ます。この場合、沈黙を選ぶか、あるいは相手を傷つけない別の表現方法(例えば、その人の別の良い点を褒めるなど)を探すのが、ヨーガ的な賢明さと言えるでしょう。真実を語るという目的が、他者を傷つけるという結果を正当化することはありません。サティヤの目的は、自己満足的な正しさの主張ではなく、愛と慈悲に基づいた、より調和のとれた関係性を築くことにあるのです。

また、サティヤは他者に対してだけでなく、自分自身に対しても実践されるべきものです。私たちは、見栄やプライド、あるいは恐怖心から、自分自身の本当の感情や欲求、弱さや限界に嘘をついてしまうことがあります。「大丈夫」ではないのに大丈夫なふりをしたり、やりたくないことを「やりたい」と言って引き受けたり。このような自己欺瞞は、自分自身の内なる声を無視し、魂を傷つける行為です。自分自身の感情や状態をありのままに認め、受け入れる勇気。それもまた、サティヤの重要な実践なのです。

 

アスティーヤ(Asteya):不盗 – 与えられていないものを取らない

第三の柱は「アスティーヤ」です。「盗むこと」を意味する「ステーヤ(steya)」を否定した言葉で、「不盗」と訳されます。これは文字通り、他人の所有物を盗んではならない、という社会的な倫理を基盤としています。しかし、ヨーガ哲学におけるアスティーヤの射程は、物理的な窃盗行為をはるかに超えて、より微細で広範な領域にまで及びます。

アスティーヤの本質は、**「自分に与えられていないものを、自分のものとして取らない」**という意識のあり方です。それは、他者の存在と、その人が持つ権利への深い尊重から生まれます。

その対象は多岐にわたります。

  • 物質的な窃盗: 他人のお金や物を盗むこと。これは最も基本的なレベルです。

  • 時間の窃盗: 約束の時間に遅れることは、相手の貴重な時間を奪う行為です。締め切りを守らないことも同様に、他者の計画や時間を侵害する「ヒンサー」であり「ステーヤ」です。

  • エネルギーや信頼の窃盗: 他人の親切心や善意に一方的に甘え、エネルギーを搾取すること。あるいは、嘘やごまかしによって他人の信頼を不正に得ることも、一種の窃盗と言えます。

  • アイデアや功績の窃盗: 他人のアイデアや研究成果を、あたかも自分のもののように発表すること。現代で問題となる知的財産権の侵害は、まさにアスティーヤに反する行為です。

  • 機会の窃盗: 不正な手段を用いて、本来他者に与えられるべきだった機会(役職やチャンスなど)を奪うこと。

さらにアスティーヤの概念を拡張するならば、**「未来からの窃盗」**という視点も生まれます。現代社会における環境資源の過剰な消費は、未来の世代が享受すべき資源を、今の私たちが前借りして奪っている、という見方もできます。アスティーヤの実践は、個人的な倫理を超え、地球規模での持続可能性というテーマにも深く関わってくるのです。

アスティーヤを実践することは、欠乏感から他者のものを欲しがるのではなく、すでに自分が持っているものに満足し、感謝する心(サントーシャ、知足)を育むことにも繋がります。他者のものを欲しがる心は、自分には何かが足りない、という欠乏意識の裏返しです。アスティーヤの実践は、この欠乏感を癒し、他者を尊重し、分かち合うという豊かな精神性を育んでくれるのです。

 

ブラフマチャリヤ(Brahmacarya):禁欲・エネルギーの制御 – 聖なる道を歩む

四番目の柱である「ブラフマチャリヤ」は、ヤマの中でも特に誤解されやすい概念かもしれません。一般的に「禁欲」、特に性的な欲求を完全に断つことと解釈されがちで、在家(社会生活を営む)の実践者にとっては非現実的な教えだと感じられることも少なくありません。しかし、その語源と本質を理解すれば、ブラフマチャリヤが現代を生きる私たちにとっても極めて重要かつ実践的な指針であることが分かります。

ブラフマチャリヤは、「ブラフマン(Brahman)」と「チャリヤ(carya)」という二つの言葉から成ります。ブラフマンはウパニシャッド哲学における宇宙の根本原理、究極の実在を意味し、チャリヤは「歩むこと」「振る舞うこと」を意味します。つまり、ブラフマチャリヤの本来の意味は**「ブラフマン(神、宇宙の真理)を意識して道を歩むこと」**なのです。

では、なぜそれが「禁欲」と結びつくのでしょうか。ヨーガの思想では、私たちの生命エネルギー(プラーナ)は有限であると考えられています。感覚的な快楽、特に性的な快楽の過度な追求は、この貴重な生命エネルギーを大きく消耗させると見なされます。ブラフマチャリヤとは、このエネルギーの漏洩を防ぎ、無駄遣いをやめ、その保持されたエネルギーを、より高次の目的、すなわち自己の霊的な成長や悟り(ブラフマンとの合一)の探求へと振り向けることを意味します。

したがって、ブラフマチャリヤは単なる性欲の否定ではありません。それは、あらゆる感覚的な欲求に対する、賢明なコントロールの実践です。

  • 食欲: 必要以上に食べ過ぎたり、味覚の快楽のためだけに食事をしたりすることを慎む。

  • 物欲: 次から次へと新しいものを買い求め、所有することに快楽を見出すのをやめる。

  • 承認欲求: 他人からの賞賛や注目を渇望し、それに振り回されることをやめる。

  • 情報欲: 目的もなくスマートフォンを眺め続け、情報の洪水に身を任せることをやめる。

これらの行為はすべて、私たちのエネルギーを散逸させ、心を外界へと向かわせます。ブラフマチャリヤとは、この外向きのエネルギーの流れを内向きに転換させ、自己の内なる中心へと意識を集中させるための実践なのです。

在家の実践者にとってのブラフマチャリヤは、パートナーシップにおける誠実さや、互いを尊重し合う関係性として解釈することができます。性的なエネルギーを破壊的・衝動的に発散するのではなく、パートナーとの愛や信頼を深めるための、神聖なエネルギーとして捉え直すのです。それは、あらゆる人間関係や日々の活動において、エネルギーを無駄に浪費せず、自分の人生にとって本当に大切なもの、究極の目標のために賢く用いるという、エネルギーマネジメントの智慧でもあるのです。

 

アパリグラハ(Aparigraha):不貪・非所有 – 手放すことの自由

ヤマの最後の柱は「アパリグラハ」です。「貪ること」「所有すること」を意味する「パリグラハ(parigraha)」を否定した言葉で、「不貪」「非所有」と訳されます。これは、必要以上のものを求めない、所有しない、そして今あるものに執着しない、という心のあり方を示します。

アスティーヤ(不盗)が「他者のものを奪わない」という他者との関係性における倫理であったのに対し、アパリグラハは**「自分自身の内なる所有欲や執着を手放す」**という、より内省的で心理的な実践です。私たちは、たとえ他から何も盗まなくとも、自分自身の「もっと欲しい」という貪りの心によって苦しむことがあります。アパリグラハは、その苦しみの根源に直接アプローチする教えです。

アパリグラハの実践もまた、様々なレベルで捉えることができます。

  • 物質的な不貪: これは現代のミニマリズムやシンプルライフの思想と深く共鳴します。自分の生活に本当に必要なものを見極め、それ以上のものを溜め込まない。物への執着から解放されることで、心には大きなスペースと自由が生まれます。それはまた、地球の資源を過剰に消費しないという、環境への配慮にも繋がります。

  • 精神的な不貪: 私たちが執着するのは、物だけではありません。地位、名声、評価、肩書き、知識、さらには「正しい自分」というアイデンティティにさえ執着します。アパリグラハは、これらの目に見えない所有物への執着をも手放すことを促します。他者からの評価に一喜一憂せず、ありのままの自分でいることの心地よさ。それがアパリグラハがもたらす心の自由です。

  • 人間関係における不貪: 他人を自分の思い通りにコントロールしようとしたり、自分の所有物のように束縛したりすることは、アパリグラハに反します。友人、恋人、家族であっても、それぞれが独立した存在であることを尊重し、健全な距離感を保つこと。期待や見返りを求めることなく、純粋な気持ちで与えること。

  • 過去と未来からの解放: 過去の栄光や失敗に執着すること、未来に対して過度な不安や期待を抱くことも、一種の「パリグラハ(執着)」です。アパリグラハは、過去を手放し、未来への不安を手放し、「今、この瞬間」に完全に存在することを教えてくれます。

アパリグラハを実践することは、何かを失うことではありません。むしろ、不必要な重荷を手放すことで、本当に大切なものを見出し、身軽で自由な心を取り戻すプロセスなのです。両手にたくさんのものを抱え込んでいると、新しいものを受け取るスペースはありません。アパリグラハによって両手を空っぽにすることで、私たちは宇宙からの新たな恵みやインスピレーションを受け取る準備が整うのです。

 

結論:ヤマが拓く、調和と自由への道

ここまで見てきたように、ヤマの五つの教えは、単なる禁止事項の羅列ではなく、より豊かで、自由で、調和に満ちた生を送るための、極めて実践的な智慧の体系です。そして、これらはそれぞれ独立しているのではなく、アヒンサーという根源的な愛と敬意を土台として、相互に深く結びつき、支え合っています。

非暴力(アヒンサー)の心があるからこそ、真実(サティヤ)を語る際にも相手を傷つけない配慮が生まれ、他者のものを奪わず(アスティーヤ)、尊重することができます。エネルギーを賢く用いること(ブラフマチャリヤ)で、心の平静が保たれ、必要以上のものを求めない(アパリグラハ)というシンプルな生き方が可能になります。

ヤマの実践は、ヨーガの旅の出発点であり、同時にその全体を貫く基盤です。この倫理的な土台がなければ、アーサナは単なる身体的なエクササイズに終わり、プラーナーヤーマは危険な技法となり、瞑想は現実逃避の手段になりかねません。私たちの日常生活における他者との関わり、社会との関わりそのものをヨーガの実践の場として捉え、ヤマを意識的に生きること。それによって初めて、私たちの内なる世界と外なる世界は調和し、心は本来の静けさと輝きを取り戻すのです。

ヤマとは、私たちを縛る鎖ではなく、私たちを不必要な苦しみから解き放ち、真の自由へと導いてくれる、古代の賢者からの慈愛に満ちた手紙なのです。

 

 

ヨガの基本情報まとめの目次は以下よりご覧いただけます。

 

 


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Kiyoshiクレイジーヨギー
*EngawaYoga主宰* 2012年にヨガに出会い、そしてヨガを教え始める。 瞑想は20歳の頃に波動の法則の影響を受け瞑想を継続している。 東洋思想、瞑想、科学などカオスの種を撒きながらEngawaYogaを運営し、BTY、瞑想指導にあたっている。SIQANという日本一簡単な緩める瞑想も考案。2020年に雑誌PENに紹介される。 「集合的無意識の大掃除」を主眼に調和した未来へ活動中。