「祈り」と聞くと、私たちは何を想像するでしょうか。神社の賽銭箱の前で手を合わせる姿、教会で跪き懺悔する信者、あるいは、個人的な願い事、例えば「試験に合格しますように」「恋人ができますように」と、特定の対象に何かを懇願する行為。こうした個人的な願望としての祈りも、もちろん人間的な営みの一部です。しかし、ヨガや東洋の叡智が指し示す祈りの力は、そのさらに先、より広く、より普遍的な地平に広がっています。それは、特定の対象へではなく、「全体の調和」へと向けられた祈りです。
この祈りのシフトは、自己の視点を「私」という小さな個のレベルから、すべての生命を含む「全体」のレベルへと引き上げることです。個人的な願い事の根底には、しばしば「今の私には何かが欠けている」という欠乏感や、「私の思い通りに世界が動いてほしい」というコントロール欲が潜んでいます。しかし、全体の調和への祈りは、こうしたエゴイスティックな動機を手放し、大いなる流れへの完全な信頼と委ねから生まれます。
この姿勢は、ヨーガスートラにおけるニヤマ(勧戒)の最終項目、イーシュワラ・プラニダーナ(自在神への献身)の精神そのものです。ここでいう「イーシュワラ」は、特定の人格を持った神である必要はありません。宇宙の根本原理、生命を司る大いなる知性、あるいは、ただ存在するすべてのものを成り立たせている法則そのもの、と解釈することができます。イーシュワラ・プラニダーナとは、この人知を超えた大いなる存在の働きを信頼し、自分の小さな計画や願望を明け渡し、「すべてが最善の形で整えられますように」と、結果を宇宙に委ねる行為なのです。
仏教における「慈悲の瞑想」もまた、この普遍的な祈りの美しい形です。瞑想者は、「私が幸せでありますように」という祈りから始め、次に「私の親しい人々が幸せでありますように」、そして「生きとし生けるものが幸せでありますように」と、その範囲を徐々に広げていきます。最終的には、自分が好ましく思わない人々、いわば「敵」と見なす存在に対しても、同じように幸福を祈ります。これは、好き嫌いや善悪といった二元的な判断を超え、すべての生命が根源において繋がり、等しく幸福を追求する権利を持つという、深遠な洞察に基づいています。
このような全体の調和への祈りは、私たちの内面にどのような変化をもたらすのでしょうか。
第一に、それは私たちを個人的な悩みや不安の渦中から解放してくれます。自分の小さな問題に固執している時、私たちの視野は狭くなり、苦しみは増幅されます。しかし、意識を広げ、地球の裏側にいる見知らぬ人や、森の動物たち、海の生き物たちの幸福にまで思いを馳せる時、自分の悩みがいかに相対的なものであったかに気づかされます。この視点の転換は、心の平安を取り戻すための、非常に効果的な方法です。
第二に、それは私たちを宇宙の創造的な流れと同期させます。全体の調和を祈るという行為は、自分自身がその調和の一部であろうとする意思表示です。それは、「私」という孤立した波が、「私」というアイデンティティを保ったまま、自らが「海」という全体の一部であることを思い出すようなものです。この一体感の中にいる時、私たちはもはや一人で人生の荒波と戦う必要はありません。宇宙全体が、私たちの味方となってくれるのです。
この普遍的な祈りを、日々の生活にどう取り入れればよいでしょうか。
それは、大げさな儀式を必要としません。朝、目覚めた時に、あるいは夜、眠りにつく前に、数分間、静かに座る時間を作ります。そして、具体的な願い事をする代わりに、ただ心の中で、あるいは声に出して、「この世界が、愛と光と調和に満たされますように」「すべての存在が、苦しみから解放され、安らかでありますように」と祈ります。
ニュースで悲惨な事件や災害に触れた時、ただ心を痛めたり、誰かを非難したりするのではなく、その場にいるすべての人々、関係者全体が癒され、平和を取り戻せるように、静かに祈りのエネルギーを送ることもできます。
祈りは、言葉である必要すらありません。ただ、あなたのハートの中心から、温かい黄金の光が放たれ、それがあなたの部屋を満たし、街を満たし、国を満たし、やがて地球全体を優しく包み込むのをイメージするだけでも、それはパワフルな祈りとなります。
利己的な願いを手放し、全体の幸福を祈る時、あなたは自我という牢獄から解放され、宇宙の無限の愛と繋がるための清らかなパイプとなります。そして、不思議なことに、あなたが全体の調和の中に身を置く時、あなた個人の人生に必要なものもまた、まるで計られたかのように、完璧なタイミングで、最もふさわしい形で引き寄せられてくることに、あなたは気づくでしょう。なぜなら、あなたはもはや、流れに逆らって泳ぐのではなく、流れそのものになったからです。


