私たちの心(チッタ)は、さながら絶えず波が打ち寄せる海のようです。思考、感情、記憶、願望といった無数の波(ヴリッティ)が、休むことなく現れては消えていきます。その波にただ翻弄されている時、私たちは自分を見失い、嵐の中で途方に暮れてしまいます。この心の海を穏やかに航海するための、古来からの、そして極めてシンプルで強力な道具が「ジャーナリング」、すなわち「書く」という行為です。
ジャーナリングは、単なる日記や記録ではありません。それは「書く瞑想」とでも呼ぶべき、自己との対話の儀式です。その本質は、私たちの内側にある主観的な心の働きを、ペンを通して紙の上という客観的な世界へと「外在化」させるプロセスにあります。頭の中でぐるぐると回り続けていた思考や感情も、一度文字として紙の上に置かれると、それはもはや自分自身と一体のものではなくなります。そこに「距離」が生まれるのです。この距離こそが、ヨガで目指す「観察者(サークシン)」の視点を育むための、最初の、そして最も重要な一歩となります。
私たちは、自分が書いた文字を、まるで他人の書いたもののように眺めることができます。そこに書かれた怒りや悲しみ、不安を見て、「ああ、自分は今、このように感じているのだな」と、冷静に、そして優しく認識することができるようになります。思考や感情の渦中にいるのではなく、その流れを岸辺から眺めているような感覚。この客観視が、感情的な反応の連鎖を断ち切り、心の平穏を取り戻すための鍵となるのです。
ジャーナリングには、目的に応じて様々なアプローチがあります。例えば、朝一番に、頭に浮かぶことを一切の検閲なしに数ページ書き出す「モーニングページ」は、眠りの間に浮上してきた潜在意識の声を拾い上げ、心のデトックスを促します。あるいは、一日の終わりに三つ、感謝できることを書き出す「感謝ジャーナル」は、ヨガの教えである「サントーシャ(知足)」を育み、私たちの意識の周波数を、欠乏から充足へとシフトさせてくれるでしょう。
困難な感情に苛まれている時には、その感情をジャッジせずに、ありのまま紙にぶつけるように書き出してみてください。誰にも見せる必要はありません。この行為は、安全な形で感情を解放する「カタルシス」となり、心に溜まった澱(おり)を洗い流してくれます。また、自分の願いや目標を明確な言葉で書き出すことは、ヨガでいう「サンカルパ(意図)」を固める行為そのものです。漠然とした思いが、書くことを通して結晶化し、現実を創造する力を帯び始めるのです。
この実践は、ヨガの八支則における「スヴァディアーヤ(自己学習)」の深遠な現れです。私たちは、自分自身の内なる風景という、この世で最も身近で、最も難解な書物を読み解こうとしているのです。ペンを執ることは、その書物を開くための鍵に他なりません。
始めるにあたって、完璧を目指す必要はありません。美しい文章を書く必要も、毎日長々と書く必要もないのです。大切なのは、ただ、始めること。お気に入りのノートと、手にしっくりと馴染むペンを用意するのも良いでしょう。道具を慈しむ心は、その行為を神聖なものへと高めてくれます。まずは一日5分から。そこには、あなただけの、誰にも侵されない聖域が生まれます。その静かな紙の上で、あなたは自分自身の最も良き理解者となり、友となることができるのです。


