人間の苦しみの根源をたどっていくと、その多くが、実は「今、ここ」にいないことから生じていることに気づかされます。私たちの心、あるいは思考というものは、実に厄介なタイムトラベラーです。それは瞬時に過去へと飛び、「あの時ああしていれば」という後悔の念に囚われたり、あるいは未来へと先回りして、「もしこうなったらどうしよう」という不安の種を育てたりします。私たちは、思考が作り出した過去や未来という幻影の世界に住み着き、目の前にある唯一の現実から、知らず知らずのうちに乖離してしまうのです。
この思考の暴走から私たちを救い出し、現実という大地に力強く引き戻してくれるアンカー。それこそが、私たちの「身体」に他なりません。あなたの思考がどれだけ過去の失敗を悔やんでいても、あなたの足の裏は「今、ここ」の床の冷たさを感じています。あなたの心が未来のプレゼンテーションを心配していても、あなたの肺は「今、ここ」の空気を吸い、吐き出しているのです。心臓の鼓動、皮膚を撫でる風、遠くから聞こえてくる車の音。これら身体を通して知覚される感覚こそが、私たちを現在地へと優しく、しかし確実に呼び戻してくれる命綱なのです。
仏教の瞑想法であるマインドフルネス(日本の仏教でいう「念」)の核心も、まさにここにあります。マインドフルネスとは、特別な精神状態を目指すことではなく、ただひたすらに「今、この瞬間」の体験に、判断を加えることなく注意を向け続ける稽古です。そして、その最も基本的な実践が、呼吸や身体感覚への気づきなのです。禅における「只管打坐(しかんたざ)」もまた、理屈や目的を一切捨て、ただ座るという身体行為そのものに徹することで、思考の迷宮から抜け出し、「今、ここ」という純粋な存在の状態に還ることを目指します。
なぜ、身体感覚がそれほどまでに重要なのでしょうか。それは、思考が作り出す物語に比べて、身体感覚が持つ圧倒的な「リアリティ」にあります。上司に叱られた記憶は、何度も反芻するうちに脚色され、元の出来事以上にあなたを苦しめるかもしれません。しかし、あなたの手の中にある温かいお茶のカップの感触は、紛れもない「真実」です。この揺るぎないリアリティに根を下ろすこと、すなわち「グラウンディング」することが、精神的な安定の礎となります。地に足がついていなければ、どんな望みも、どんな創造も、砂上の楼閣に過ぎません。引き寄せの法則が真に機能し始めるのは、このグラウンド(土台)が確立されてからなのです。
そして、「今、ここ」に完全に在ることの力は、計り知れません。なぜなら、喜び、平和、愛、そして創造性といった、私たちが本当に求めているものはすべて、過去や未来には存在しないからです。それらは常に、「今」というこの瞬間にしか体験できないのです。あなたが引き寄せたいと願う豊かな未来は、遠い未来のある日に突然現れるのではありません。それは、「今」この瞬間のあなたの「在り方」――あなたの感情、あなたの意識の状態――が、まるで映写機のように未来というスクリーンに投影された結果なのです。量子力学の世界で「観測者の行動が結果に影響を与える」と示唆されているように、あなたが「今、ここ」でどんな周波数の意識で世界を観測するかが、現れる現実を決定づけると言っても過言ではないでしょう。
人生という旅において、私たちが実際に生きることができる場所は、「今、ここ」という一点だけです。過去は記憶であり、未来は想像に過ぎません。その唯一無二の現実へと私たちを連れ戻す鍵を、あなたの身体は常に握っています。身体感覚というリアリティに深く根を下ろす時、私たちの人生は、思考が作り出す牢獄から解放され、無限の可能性に満ちた、開かれたフィールドとしてその姿を現すのです。


