ルールというのは必要最小限で必要だと思っています。
必要最小限は必要です。
法律だって必要ですからね。
家庭内でのルールもある程度は必要でしょう。
アバウトに決まっているとはいえ、そこには何かしらのルールがあると思います。
マイルールをちゃんと持っている人もいることでしょう。
このマイルールがやっかいに働くこともあります。
マイルールは厄介なことを起こす
「こうしなければいけない」「こうしてはいけない」ということを決めているのがマイルールですね。
マイルールを持っていますかね。
ありますよね。
少ない人、多い人いると思いますがマイルールはあると思います。
「人に迷惑をかけてはいけない」というルールがある人もいると思います。
多くの人が迷惑をかけてはいけないルールを持っていることでしょう。
マイルールを破っている人をみるとイライラしたりすることもあるでしょう。
イライラしてしまうときは、本当にそのルールを自分が守りたいのかを考えることも大事ですね。
だって、自分が怒っているんですからね。
自分も守りたくないから、破っている人が気になる。
結果、怒ってしまっている。
自分は我慢しているから、人にも我慢をしてもらいたい。
余計なお世話ですね。
周りからすると「そのようなルールをやめてもらえるかな、迷惑なんだけど」という話です。
「してはいけないこと」をマイルールとして嫌なのに持っていると、周りに対してもマイナスに働くようです。
ありますよね。
でもやってしまう。
結局、自分が迷惑な人になっている。
周りの人にとって迷惑な人に自ら陥ってしまう。
残念な話です。
マイルールはうまく運用しないと、傍迷惑な人へと自分を運んでしまうのです。
再発防止のルールという残念なルール
ではどうしていったらいいか。
「ルールを守る」というルールを作るのか。
ルールを見張るルールを作るのか。
これはどんどん残念になっていきます。
意味のないことをし始めるからです。
信号を守るのは当然ですね。
そもそも、信号は事故にならないように、円滑に車や歩行者が渡れるようにルールが決まっています。
赤だからと渡ってはいけないという決まりごとをしているのは、事故防止や円滑に動けるためです。
緊急事態があったりすればそのルールは変更されます。
あくまでも、日常の時のルールであり、目的は事故防止と円滑性だからです。
「他人に迷惑をかけない」というのもなぜその設定をしているのでしょうか。
自分を守るためですか。
人に怒られたくないからですか。
自己保身やエゴのためにそのルールを守ろうとすると、必ず自分を苦しめる方向へいきます。
なぜ、迷惑をかけてはいけないのでしょうか。
なぜ、迷惑をかけると大変なことになると思っているのでしょうか。
人に怒ってしまうほどに嫌なことを守っているのでしょうか。
ここを観じていかないと、ルール自体が意味をなさない。
どうでしょうか。
見張るというのは終わらない戦い
マイルールを見張ると終わらない戦いが始まるのです。
終わらないのですよね、これ。
辛いですよ。
ずっと見張りつづけて、違反すればダメ出しをし続けるのですから。
疲弊します。
疲弊している自分を自己肯定したくなり、都合の良い情報を人に言ったりします。
「こういうことがあるから、このルールは守った方がいい」と都合の良い例えだけ言ってみたり。
そういった戦いをしていることが周りからすれば、いらない正義だったりするわけです。
正義も行き着く先は争いになります。
多くの戦争を見ているとそのように見えるわけです。
正義も振りかざすと悪にもなりかねない。
困ったものです。
”私”という存在をもう少し薄くしていくといいと思っています。
そのために瞑想が有効かなとも思っています。
見張ることもやめていくと楽になると思います。
”私”を薄くしていきましょう。
終わりに:人に迷惑をかけてもいい
「人に迷惑をかけてはいけない」
「人を非難してはいけない」
「人に嫌な思いをさせてはいけない」
「危険なことをしてはダメ」
色々とマイルールがあると思います。
ありますよね。
それでいいのですけど、このルールがどのように働いていますか。
結果として、周りに変なマイナスの波長を振りまいていませんか。
ゲーテは言いました。
「人間の最大の罪は不機嫌であること」
不機嫌であることが殺人よりも罪が思い。
すごいことを言う人です。
そのぐらいに不機嫌であることが、様々な負の出来事を作り出しているということです。
マイルールに縛られて不機嫌になっていませんか。
本末転倒になってはもったいないですね。
機嫌よくやっていきましょう。
そのためのマイルールは良いと思います。
私も「好きにワクワクすることを淡々とやっていった上」で、それでも余裕があれば気をつけます。
参考記事:好きなことをして生きていくと決めていこうぜ、という話